銘米神議

第1話 出発

「麓、斎宮さいぐうの神仕さん来とるで! 準備はできちょるか?」


縁側から祖父に呼ばれ、麓は羽織の紐を慌てて結びながら「もう出る!」と叫んだ。

紐の形がなかなか決まらず、「まあ、これでええか」と半ば投げやりに縁側へ駆け出そうとした、そのとき――


「待ちなさい! あんたはこれから神さまの御前に行くんだに!」


母に肩をつかまれ、小言を言われつつ着付けを直される。

麓が祖父から稲守を継いで三年目、今年初めて銘米神議めいまいしんぎに参加する。齢も十九になったが、稲守としての所作はいまだ板につかない――。


祖父は二人のやり取りを眺め、やれやれとため息をついた。


九月。田は黄金色に染まり、稲木いなぎに掛けた稲束から甘い籾殻の匂いが漂う。

今年も米の格を定める銘米神議の時期が巡ってきた。


麓は村で育てた新米を携え、天つ神の斎宮へ向かう。神前で米を献じ、その格を量られるのだ。


今年こそ――何としても格を上げたい。

その一心で、麓はこれまで以上に稲守の務めに打ち込んできた。


「母ちゃん、もう行かんと……」


時間を気にして麓は縁側に目をやる。


「兄ちゃん、まだ着付け直されとるんか? ほんに進歩ないの〜」


襖の隙間から顔をのぞかせたのは、麓より三つ下の弟・鳴実だった。

笑いながら、胸元で手を握り、こんこんと咳をこらえる。


「鳴実、起きとったんか」

「おん」


鳴実は、赤い稲穂飾りで留めた小さな風呂敷包みを差し出した。


「大事なもん忘れとるで」


「あっ……!」

「小町さま待っとられるけん。急ぎや。……あ、土産は伊都屋いとやの大福、頼んだで」


「……おう」


麓は包みを受け取り、少し心配そうに鳴実の顔を見つめてから外へ飛び出した。


「神米受け取ったら、そのまま向かうけん!」

「おう、小町さまによろしく伝えといてな。気ぃつけて行きんさいよ!」


祖父と母に見送られ、麓は足早に村外れの社へ向かった。


***


社に着くと、麓は着物の合わせを軽く整え、背筋を伸ばして二礼した。


新緑の隙間からこぼれる陽光が、白い茅葺き屋根をきらきらと照らす。

澄んだ空気と鳥の穏やかなさえずり――変わらぬ清らかさに、自然と身が引き締まる。


麓は柏手を二拍打ち「小町さま、参りました」と声をかけた。……が、返事はない。


ん? と眉をひそめた次の瞬間、社の裏から男女の言い争うような声が聞こえてきた。


「ほらッ! 見て! こっちのほうが粒が大きくて澄んでる! さっきのと替えよ?!」

「いやお前……それはさっき自分で『こっちのほうがいい』言うて替えた米じゃが!」


聞き覚えのある声に、麓はそろそろと社の裏へ回り込む。


「――だめだ。全部、最高の米に見えて選べない……」

「小町よ。わしはこのやり取りを毎年せにゃいかんのか?」


葦津がぼさぼさの頭を苛立たしげにかきむしる。


「でも、私、今年こそいける気がするの。絶対に……格、上がると思う!」


小町は正座のまま拳を膝にぎゅっと押しつけ、熱っぽく訴えた。


その熱気に少し気圧されながら、麓はおずおずと声をかける。


「……あの〜」


二人はハッとしたように麓へ顔を向けた。


「お、麓。もう行く時間か」


そう言った葦津に、麓はさっと腰を落とし深く頭を下げる。


「はい、葦津さま。神米を受け取り次第、斎宮に向かいます」


ククッ……と葦津が喉の奥で笑いを噛み殺す。


「だいぶ“それっぽく”できるようになったじゃないか」

「そうじゃろ?」


麓はにやりと笑い、顔を上げた。


「麓! こっちの米と、こっちの米、どっちの出来がいいと思う?!」

「うーん……どちらも変わらず素晴らしい米かと……」

「そ、そう……? ううん……じゃあ、こっちにするわ!」


小町はいそいそと社の奥から枡を取り出し、選んだ最後の一粒をそっと上に落とした。

枡にはきっちり一合分の米が詰められている。


「では、承ります」


麓は枡を薄葉紙でぐるりと巻き、米がこぼれぬよう留める。

それから赤染めの稲穂で紙を十字に結わえ、最後に小さな風呂敷でそっと包み込んだ。


包みを胸に抱き、麓はふたりに向き直る。


「それでは、行ってまいります」

「おう、気をつけてな」


葦津は軽く手を振り見送ろうとしたが、小町はその隣で指先をもじもじと絡め、不安げな視線を麓に向けた。


「麓、あのね……今年は気候も良かったし、神気もちゃんと米核に入れられたと思うの。……だから、今年こそ格、上がると思うんだよ……」


笑ってはいるが、その声はわずかに上ずり、かすかに震えている。

小町の緊張が言葉の端々から伝わってくる。麓はふっと息を吐き、そっと微笑んだ。


「今からそんなに緊張してたら、疲れちゃいますよ。神議はまだ五刻も先ですし――それに、そんなに格上げを気にしなくていいんです。小町さまの米は、うちの村にとっていつだって最高格ですから」


遠くで駒犬の吠える声が聞こえた。いけない。出発の合図だ。

麓は慌ててふたりに頭を下げ、社を後にする。


葦津はその背を見送り、ふっと息をついて社の縁に腰を下ろす。

横で立ち尽くす小町を見上げ、ぽつりと漏らした。


「だってよ。儂も、そんなに格にこだわらんでええと思うけどな」


小町は俯いたまま、そっと呟く。


「格が上がらないのはきっと、私の神気が弱いせい……。なにか、もっと確かなことができればいいのに」

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