第1話 試される文殊

天正二年 越前も雪解けの頃


岐阜の裏座敷は、火が落ちて冷たかった。

恒興は指先に息を吹きかけ、廊下の足音を待つ。


(大殿は越前へ行かせろ、と……。強い。それは認める。だが一人で、とは……)


落ち着かぬ思いが、畳の目のように細く胸を刺していた。


そこへ、ドカドカと遠慮のない足音が近づき、障子の前で止まる。


文殊が現れた。


「越前が荒れておる。土橋信鏡つちはし のぶあきら――平泉寺に籠っておる」


恒興は声の調子を崩さず、淡々と続けた。


「だが兵は薄い。三日後の援軍まで持たぬ」


文殊は胡坐の膝に両手を掛け、返事の代わりに視線だけ寄こした。


「任は二つ。一つ、死の確認。もう一つ、名を失わせるな。旗でも刀でも遺言でもよい。何か一つ戻せ。――お前なら一人で足る」


「へいへい」


「なんだその返事は。お前ももう数え十五よな。口の利きようを弁えよ」


恒興は一度、文殊に目を向ける。


「それに……そのかぶいた着物。ちと自重してはどうじゃ」


長い髪は高い位置でひとつに結ばれ、白い組紐が獣の尾のように揺れている。

白い正絹の着物は袖がなく肩まで晒し、丈は太腿で切れた。下にはさらし、細めの帯。背丈に不釣り合いな大太刀を肩に掛ける。


雄琴で“お嬢”と呼ばれ、無法者どもに恐れられた――そのままの姿だ。


文殊は、裾の血染みを見つけると、急に正座へ戻って手で隠した。


恒興はため息を飲み込み、言葉を継ぐ。


「……行け」



翌日。

山が深くなるにつれ、空は低くなった。白山からの風が肺を刺す。

平泉寺の門前は、すでに熱気で膨らんでいた。


幟、太鼓、念仏、罵声。

音が混ざると鈍器になり、耳を殴る。


文殊はその熱を背に受け、寺の裏へ回った。勝手口を見つけ、戸を押す。


開かない。


「なんだよ、閂かけてんのかよ」


二、三度蹴ると――戸が、すっと横に滑った。


「引き戸だよ。取っ手見りゃ分かるだろ」


丸坊主が、にやりと顔を出した。


善住坊。傭兵を生業にする男だ。相変わらず、胡散臭い笑みである。


「お嬢……じゃなかったな。今日は“使いの御方”か。ここの坊主には顔が利く。通すぜ」


「おめえ、こんなとこで商売か。精が出るな」


文殊は目を細めて、軽くうなずいた。

ここで要るのは礼ではない。借りだった。


――借りは着るもので、返すものではない。

善住坊の口癖を、文殊も知っている。


「ここの兵は百を切った。まあ、お嬢。あんたが居りゃ外の奴ら蹴散らして終いだ。楽勝だな」


「今日は使い走りで一人だ。逃げんなら自力でやれ」


善住坊の目が白黒した。


「お前一人だって。織田って無茶苦茶だな。俺たち傭兵は使い捨てか」


文殊は仕官させられたことを言わず、


「ったくだ。めんどくせー話だよ」


とだけ返した。


鐘楼を横目に本堂を回り、正面扉から堂に入る。守りは薄い。

堂を抜け、土橋信鏡の陣へ通された。


鉄と藁の匂いが鼻を刺す。床几はきっちり並び、乱れがない。言葉を使わずとも、指揮の質が見えた。


「誰だ」


「織田家より使い。池田文殊」


「使いで、その軽装か」


文殊は肩を竦める。


「この方が潜入し易い」


信鏡の口元が、わずかに動いた。笑ったのか、古傷が引きつったのか、どちらにも見える。


文殊は伝えるべき言葉を置いた。


「援軍は二日かかる。それまで持て。もう一つ、討死なら名を残せ。旗でも刀でも遺言でも――私が持ち帰る」


土橋信鏡は、ゆっくりと目を閉じた。


鎧の擦れる音ひとつしない。

門前の怒号も、家臣が息を呑む気配も、今の彼には届かぬようだった。


その顔が、武士の矜持きょうじを最期まで貫かんとする者のそれへと変わっていく。


やがて、目を開く。


「三騎で駆ける。門を開け、くさび(一点突破)を打つ。継ぎ目(兵の隙間)はどこだ」


平泉寺・正面門。正午前。


信鏡は二人の家臣を従え、門前に並んだ。


「――あたしが最初の継ぎ目を作る」


文殊は外の気配を探る。

空気が、変わった。幟の布が乾き、太鼓の皮が甲高く鳴る。合図だ。


「今だ!」


雑兵二人が門に手を掛ける。閂が外れ、門が悲鳴を上げた。


文殊が飛び出す。先鋒の五人を、瞬きの間に崩した。


三騎が続く。先頭は信鏡。馬が笑うように前脚を伸ばす。

相手は一揆衆だ。農民の先鋒を弾き、斬って割る。先鋒は抜かれ、潰走した。


信鏡は次鋒へ向かう。槍衾が敷かれている。距離がある。突撃がない。


その“間”が、信鏡を追う文殊の胸に引っかかった。


次の瞬間、雨のような矢が降った。


「一度戻れ!」


文殊が叫ぶ。


信鏡は構わず走った。

家臣の一人が落馬し、動かなくなる。それでも信鏡は止まらない。刀を振り上げ、叫びながら。


刹那。


土橋信鏡が、前を向いたまま落馬した。

だが転ばなかった。


座ったのだ。


品のある最期がこの世にあるなら、たぶんこうだ――と、文殊は思った。


三騎のうち二騎が折れ、最後の旗持ちが主へ寄ろうとして倒れた。


一揆衆が信鏡に群がる。


「その首は俺のだ」

「俺の槍が倒した」

「どけよ、俺の勲功だろ」


視線が旗へ吸い寄せられた。倒れた旗は、名を泥に貼りつけた。


文殊は疾走する。


掴んだ。


柄を断ち、布を雑に畳んで懐へねじ込む。

刀は――信鏡を一瞬見て、捨てた。


(拾えば遅れる)


醜い奪い合いの渦の中、文殊は静かに場を離れた。


すぐ後ろを、善住坊が追ってくる。胡散臭い笑みは、いつも通りだ。


それを見つけた一揆衆が叫ぶ。


「敵が逃げるぞ! 殺せ!」


鬨の声が上がり、波が押し寄せた。


「チッ……善住坊のやつ」


舌打ちを気にも留めず、善住坊は歯を見せる。


「探したぜ。急に居なくなるなよ。逃げそびれるだろ」


「逃げ道ぐれえ、自分で作れ。バカが」


「そう言うなよ、お嬢。俺と居た方が楽だろ」


善住坊が、後ろの一揆衆を横に薙ぐ。

気づけば北陸街道への道は人で溢れていた。


文殊は走る。一揆衆へ向けて、真っ直ぐに。


最初の一人を、抜刀と同時に斬り捨てた。

口角が上がっている。


それを見た善住坊も、ニヤリとする。


槍や刀を持つ者もいるが、多くは棒と竹槍だ。そんな武器が、文殊の胴田貫に通じるはずもない。


文殊は笑いながら斬っていった。


善住坊は、ふと計算する。


(もう逃げられそうだ。あいつは放っとくか)

(……いや、落ち武者狩りが居ると面倒だな。お嬢に斬らせるか)


そう思い直し、文殊を呼びに戻る。


一揆衆を楽しげに斬る背中を見て、善住坊は吐き捨てるように呟いた。


「相変わらず、狂ってるとしか言いようがねえな」


「お嬢、逃げるぞ」


だが文殊は止まらない。


善住坊は錫杖で、文殊の刀を受け止めた。

文殊がさらに口角を上げ、白い牙を見せる。


「てめえも死にてえのか」


「おい――名を持ち帰るんじゃねえのか」


その言葉で、文殊の目が一度だけ戻る。

懐を押さえた。


「……無え」


殺気が霧散し、文殊は急に慌てだす。自分の身体をまさぐり、きょろきょろと辺りを探す。


「え? え? うそ、落とした?」


左手で懐を探りながら、右から突っ込んできた敵を、適当に薙ぎ払う。


善住坊が呆れ顔で言った。


「暴れ過ぎだ。腰に回ってるよ」


錫杖で文殊の腰を、ぽんぽんと叩く。

着物の中の背に、旗布がへばりついていた。


「ったく、手のかかる。逃げるぞ」


善住坊が吐き捨てて走る。

文殊は「ふう、焦った」と溜息をつき、追った。



岐阜の裏座敷。


恒興は同じ座敷に座っていた。火は焚いていない。机上の紙は乾き、触れれば音を立てそうだった。


「どうだ」


「討死だ。門外にて。三騎で楔。旗を持ってきてやったぜ」


「刀は」


「遅れるものは置いてきた」


恒興はわざと返事を遅らせる。遅れた分だけ、言葉は重くなる。


「……足る」


立ち上がり、文殊の腕から旗を受け取った。

一度だけ撫でる。泥が畳に落ちた。音はしない。


「ごくろう。下がってよい」


「なにが、ごくろうだよ」


文殊は鼻を鳴らして出ていく。


城門の陰で、善住坊がにやついた顔を半分だけ出した。


「借りは三倍が相場だよな?」


「借りてんのはおめえだろ。逃げ遅れただけだ」


文殊は小声で返し、歩き去る。


戦場の断片が頭に残っていた。


継ぎ目があれば楔が打てる。刃も通るし、足も出る。

――だが、溜息も出る。


「次は天魔との謁見か」


城門を出て、文殊は振り返る。

岐阜城の天守が見えた。そこにいるのは、第六天魔王だ。


裏座敷で旗を見つめる恒興に、二つの影が忍び寄り、書付を渡す。


恒興は目で追った。


「一揆衆――百四十余討取」


(強さは疑いない。だが、扱いを誤れば――喰われる)


襖の向こうで、信長が愉快そうに笑った。

そして、パアン、と襖が開く。


「どうだ、恒興。池田文殊。やはり使える」


信長は盃を傾ける。


「次は謁見じゃ」


力だけが正義として育った少女の荒療治は、この岐阜城から始まる。

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