第23話「怠惰の煙、勤勉の針」
工房の棚には、修復・再創造されたぬいぐるみたちが、以前よりも強い、そして温かい霊気を放って並んでいた。仲間たちとの「絆」を新たな芯として生まれ変わった彼らは、
その時、紡のスマホがけたたましく震えた。画面に表示されたのは、
「もしもし、葵?」
『……つむぎ、ちゃん…?なんか、へん…』
電話の向こうから聞こえてくる葵の声は、ひどく気だるげで、呂律が回っていない。
『みんな、うごかなく…なっちゃって…。なんか、ねむい…』
メッセージはそこでぷつりと途切れ、あとは通話が切れる音だけが響いた。紡がかけ直しても、呼び出し音が虚しく響くだけで、誰も出る気配はない。
「異形衆の仕業やもしれん」
祖父ぬいぐるみが紡の肩で呟く。
「葵の小娘は、確かこの時間は、駅前の雑貨店でアルバイトのはずじゃ。街全体に何かあったとみて、間違いないじゃろう」
「……駅前」
紡の脳裏に、雑踏のイメージが浮かび、一瞬だけ体が強張る。人とすれ違うこと、多くの視線に晒されることへの恐怖。しかし、彼女はすぐに首を振り、通話が切れたままのスマホの画面を見つめた。そこには、葵との楽しげな写真が表示されている。
(もう、迷わない。葵を、助けに行く)
紡はぬいぐるみたちを懐に入れ、覚悟を決めて立ち上がった。その瞳には、かつての怯えはもうなかった。
◇
昼間の八王子駅前は、異様な光景に包まれていた。
紫煙をくゆらせるキセルのような、甘く気だるい香りが混じった煙が、街全体をうっすらと覆っている。道行く人々は、まるで糸が切れた操り人形のように、その場に座り込んでいた。スーツ姿のサラリーマンが、大事な書類をばらまいたままベンチで虚ろに空を眺めている。主婦は買い物かごを放り出し、路上で楽しげに鼻歌を歌っている。誰もが全ての勤労意欲を失い、偽りの幸福感に満ちた怠惰に身を委ねていた。
「これは……ひどい…」
紡は煙を吸い込まないよう口元を袖で覆い、目的地である大型雑貨店へと急いだ。甘い煙は、吸い込むと脳が痺れるように思考が鈍り、戦う意志そのものを削いでいく。
店の中も同じだった。客も店員も、床に座り込んだり、商品を枕にして気持ちよさそうに眠ったりしている。紡は、店の奥で葵の姿を発見した。彼女は自分の緑色のエプロンを丸めて枕代わりにし、床で幸せそうな寝言を言いながら眠りこけていた。
「葵!」
紡が葵の肩に手をかけた瞬間、音もなく、一人の青年――
「やあ。やっと来たんだね、織紡師。君を待つの、ちょっと面倒だったよ」
憊がキセルをふかすと、吐き出された煙が葵の周りを包み込み、ふかふかの雲のベッドのような形を作る。
「んん…雲のベッドだぁ…さいこー…もう、うごきたくなーい…」
葵がさらに幸せそうな寝言を言う。
「彼女もこう言ってることだし、君も頑張りすぎだよ。少し休んだら? 戦いなんて、面倒でしょ?」
憊は、濃密な煙を紡に吹きかけた。その甘い香りを吸い込んだ瞬間、紡の脳裏にかつての無気力な自分がよぎる。しかし、彼女は強く首を横に振った。葵との絆、仲間たちとの誓いが、彼女の心を支えていた。
「……断る。葵を、みんなを、元に戻して」
「やれやれ。面倒なのは嫌いなんだけどな。じゃあ、力づくで眠ってもらうしかないか」
憊は心底面倒くさそうに肩をすくめた。
紡は鎧武者のぬいぐるみを召喚する。鎧武者が憊に斬りかかるが、憊はキセル一本でその刃を軽々と逸らした。
「おっと。話の通じない子は、嫌いだなあ」
憊の姿が煙のように揺らぎ、鎧武者の刃は空を切る。気づけば、憊は少し離れた棚の上に移動していた。
「幻影…!」
何度攻撃を仕掛けても、のらりくらりとかわされる。焦る紡に、祖父が助言した。
「ただ力をぶつけるだけでは奴には当たらん! 紡よ、思い出すのじゃ!お前が仲間たちを再生させた、あの力を!一つの力と、別の力を結びつける、お前だけの新しい技を! わしの技術とお前の発想を融合させ、新たな力を示す時じゃ!」
その言葉に、紡は決意の表情で頷くと、懐からろくろ首の布の端切れから作った、小さな黒い「陣羽織」を取り出した。
「【ものけ
紡が陣羽織を鎧武者に纏わせると、鎧武者の両目が鋭い光を放つ。ろくろ首の「特定対象を探し出す」能力が、鎧武者に宿ったのだ。鎧武者の視界では、煙の幻影は色褪せて見え、その奥にある憊の本体だけが、赤い輪郭線となってはっきりと見えていた。本体は、雑貨店の向かいにあるカフェの、テラス席のソファで、一連の騒動を気だるそうに寝そべって眺めているだけだった。
「……そこ!」
鎧武者は店内の幻影を突き抜け、ガラス窓を突き破り、無防備な本体の腹に、強烈な一撃を見舞った。
「いッ……たぁああああっ!!」
憊は本気で痛がり、ソファからのたうち回っている。
「あーもう、最悪! なんで僕がこんな痛い目に…。面倒くさいから帰る!今日の仕事はもう終わり!」
憊はそう文句を言いながら煙と共に姿を消した。
◇
憊が消えると、街を包んでいた煙も晴れていく。すると、怠惰に沈んでいた人々が一斉に我に返り、パニック状態になった。
「やばい、会議に遅刻だ!」「部長にどう言い訳すれば…!」「子供のお迎えの時間!」
人々は慌ててスマホを取り出し、職場や家族に謝罪の電話をかけ始める。その光景に、紡は奇妙な違和感を覚えた。
(本当に、解放されたのだろうか。怠惰という檻から解放されて、今度は社会という別の檻に、慌てて戻っていくだけのような……)
紡は雑貨店に戻り、まだ眠り続ける葵を休憩室のソファにそっと移す。その穏やかな寝顔を見つめながら、彼女が目覚めるのを静かに待つことにした。戦いは終わったはずなのに、心には晴れない靄のようなものが残っていた。
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