第5話「おせっかいな来訪者、日常と非日常の交差点」
下げ坂の一件以来、桜井葵と名乗った少女は、
「友達になろう!」
と太陽のような笑顔で高らかに宣言し、まるで昔からの知り合いであるかのように、頻繁に紡の古民家を訪れるようになった。
「紡ちゃーん!遊びに来たよー!」
がらり、と古い木戸が立てる独特の音と共に、快活な声が響き渡る。居間の縁側で、黙々と針を動かしていた紡の肩が、びくりと跳ねた。それは、もはや条件反射に近かった。最初のうちは息を潜めて居留守を使ってみたりもしたが、葵はそんなことお構いなしに「おっかしいなー、絶対いると思ったのにー」などと大声で呟きながら、ずかずかと家に上がり込んでくる。無駄な抵抗だと悟るのに、そう時間はかからなかった。
「……嵐のような小娘じゃな」
紡の傍らに置かれた裁縫箱の上で、ちょこんと座る祖父ぬいぐるみが、半ば感心したように、半ば呆れたように呟く。紡も、その言葉に同意するように、小さく、しかし深くため息をついた。静寂は、彼女にとって心を落ち着かせるシェルターだったが、葵はその扉をいとも容易く、笑顔で蹴破ってくるのだ。
嵐は、いつも律儀に手土産を持って現れた。
「なーんだ、やっぱりいるんじゃん!これ、お土産!八王子名物の都まんじゅう!白あんと黒あん、両方買ってきたよ!」
葵はビニール袋を強引に紡に押し付けると、返事も待たずに台所へ向かい、勝手知ったる様子でお茶の準備を始める。そして、紡が聞いてもいないのに、堰を切ったように一方的に喋り続けるのだ。
「それでね!昨日ネットで見たんだけど、高尾山の近くの廃トンネルで、夜中に車のクラクションを三回鳴らすと、女の人の幽霊が出るんだって!しかも、その幽霊、めっちゃ美人らしいよ!気にならない!?」
「……別に」
湯気の立つ湯呑みを置きながら、葵は心底不思議そうに首を傾げた。
「えー、なんでー!?あんなすごい力を持ってるのに、興味ないの?絶対面白いって!今度一緒に行こうよ!」
その強引で天真爛漫なペースに、紡はいつも振り回されっぱなしだった。
けれど、いつの間にか、その嵐のような来訪を、どこか心待ちにしている自分もいることに、紡は気づいていた。
一人きりだった食卓が二人になり、しんと静まり返っていた家に葵の明るい笑い声が響く。葵が持ってくる、なんてことのないお菓子を広げ、オカルト話に呆れながらも相槌を打つ。そんな騒がしい時間が、分厚い氷に閉ざされていた紡の心に、小さな穴を開け、少しずつ、しかし確実に温かいものを注ぎ込んでいるようだった。
◇
ある晴れた日の午後。紡と葵は、二人で工房の整理をしていた。葵が「私も手伝う!」と言って聞かなかったからだ。
壁一面に並んだ膨大な量の布や糸を前に、葵は宝の山でも発見した探検家のように、目をキラキラさせていた。
「うわー、すごい量だね!これ全部、紡ちゃんのおじいさんのコレクション?」
「……うん。たぶん」
「この糸、見て!一本の糸なのに、虹みたいに色が変わる!きれいー!あ、こっちの布は、触るとひんやりする……。不思議な感じ」
葵は、一つ一つの素材を手に取り、子供のように無邪気な感嘆の声を上げる。紡は、自分の聖域に他人がいることに少し戸惑いながらも、葵が祖父の遺したものを純粋な好奇心で褒めてくれることに、くすぐったいような温かい気持ちが芽生えるのを感じていた。
そんな会話をしていると、葵がオカルト雑誌を片手に、興奮した様子で紡に詰め寄ってきた。
「ねえ紡ちゃん!この記事見て!八王子最強の心霊スポット、旧S病院!なんでも、ここで肝試しした人が、次々に行方不明になってるんだって!ね、今度、ここに一緒に探検に行こうよ!」
その無邪気な一言に、紡は内心で深く、深いため息をついた。
(やっぱり、この人とは根本的に合わないかもしれない……)
その様子を、棚の上から見ていた祖父ぬいぐるみは、呆れつつも、その刺繍の目にはどこか喜びの色を浮かべていた。
(ふん、相変わらず騒々しい小娘じゃ。じゃが……)
祖父の視線が、葵と話すうちに、無意識のうちにその口元が微かに綻び、自然な笑顔を見せ始めている紡に向けられる。
(わし以外の他者との関わりの中で、あやつは『共感力』という新たな力を開花させた。それだけではない。わしの『着物で力を借りる』という古来のスタイルにはなかった、自律稼働するぬいぐるみという革新的な技術まで生み出しおった。……面白い。実に、面白い孫娘じゃ。この小娘は、紡の力をさらに引き出す触媒となるやもしれんな)
◇
夕暮れが迫り、葵が帰る時間になった。紡は、彼女を玄関まで見送る。西日が差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。
「じゃあ、廃病院の件、考えといてね!絶対だよ!私、先に行って待ってるかもしれないから!」
元気に手を振る葵に、紡はまた一つため息をついた。その言葉が、単なる冗談ではないことを知っているからだ。紡は、懐から意を決したように二つのぬいぐるみを取り出した。一つは、葵が「ゆっくりざむらい」と命名した生首のぬいぐるみ。もう一つは、厄除け狛犬のぬいぐるみだ。どちらも、紡が心血を注いで生み出した、大切な仲間だ。
「……これ、持っていって」
「え?いいの!?こんな大事なもの……」
葵が驚いて目を見開く。
「あなたが、無茶しないように。お守り」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その目には隠しきれない心配の色が浮かんでいる。
「……これで何かあったら、すぐ分かるから」
それは、紡なりの最大限の歩み寄りであり、不器用な優しさの表現だった。葵は、そのことに気づくと、二つのぬいぐるみを宝物のように大事そうに両手で受け取り、満面の笑みを浮かべた。
「わーい!ありがとう、紡ちゃん!絶対に、大事にするね!」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていく。その背中を見送りながら、紡は二人の間に、目には見えないけれど確かな糸が結ばれたのを感じていた。
一人きりになった工房に戻ると、そこにはまだ葵の賑やかな気配と、都まんじゅうの甘い香りが微かに残っていた。その温かい残り香が、紡の胸を締め付ける。
(……でも、あの狛犬を渡したことで、あの子が次の厄介事を引き寄せることになるなんて)
(この時の私は、まだ知る由もなかった)
窓の外に広がる夕闇を見つめながら、紡は、これから訪れるであろう非日常の予感に、静かに身を震わせるのだった。
***
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