第8話 少年の回想 その3

 テーブルの上に本を置いて、思い切って本に右手を突っ込むと、ズボッと肘の手前辺りまで沈みました。しかしながら、本を貫通したわけでは無く、僕の右手は本に飲み込まれる形になり、あまりに常軌を逸した光景に僕自身が驚いていたんですが、電車の通路を挟んで隣の席の五歳ぐらいの子供が目を丸くして僕の方を見ていました。子供は僕が右手を引き抜きても僕のことをじっと見ていたんですが、暫くすると母親から「あんまり人をジロジロ見てはいけません」と怒られて、ようやく前を向いてくれました。騒ぎにならなくて安堵です。

 さて引き抜いた右手に異常がないか見てみましょう、何処も痛みは無いし同級生に踏まれて出来た痣以外は至って健康的です。指も五本全部あるので沈みこませた後と引き抜いた後に差異は見られません。こうなるともっと体を本の中に入り込ませたくなってきますね。恐怖心が無いわけではありませんが、どうせこれから先も、お先真っ暗な人生が待ち構えています。そう思えば何でもやってやろうという気になってしまったのです。

 今度は両腕を本の中に突っ込みました。ズボッと一気に肘まで入れました。こうなると今度は顔も入れたくなり、深く深呼吸をした後に、頭を本の中に沈みこませます。ズボズボと本の中に頭を入れると、そこには暗闇が広がっていました。普通なら怖いと感じるのでしょうが、精神的に病んでいた僕はその暗闇に少しばかり期待と安らぎを感じてしまったのです。ここが僕の居場所になってくれるかもしれない、そう思ったら居てもたってもいられなくなりました。僕は頭を引き抜かずに、そのまま本の中に体をズブズブと入れ込んで行き、本の中にズッポリと自分の体を全て入れてしまったのです。その後は暗闇の中をドンドンと沈んで行くだけ、不思議と怖さとか不快感はありませんでした。ただ何処かいけないことをしているんだろうなと頭では分かっていましたが、とても元の世界に戻ろうなんて気は一切起きなかったのです。

 そうして気が付くと、僕は殺風景な荒野の上に立っていました。周りにはひび割れた大地が広がり、枯れ果てた草木が所々に見えるだけです。広い荒野に一人っきりという状況に、僕は読んでいた小説を思い出しました。


「荒野に一人、まさしくここは荒野に一人の世界そのものだ」


 そう一人で呟くと、自分が本の世界に入ったのだと実感しました。あまりに荒唐無稽ですがそう信じるしかありません。試しに頬を抓ってみても、しっかりと痛みがあったので夢では無いと思います。

 しかしながら、こんな荒野でどうすれば良いんでしょうか?元の世界への戻り方も分かりません。まぁ、戻ろうなんて気は全く起きないわけですが。


「主、お悩みですか?」


「うわっ‼」


 急に後ろから話し掛けられてビックリしました。後ろを振り向くと黒い西洋甲冑の様なものを着た、赤い長い髪の女性が立っていました。物語の登場人物でしょうか?だとしたら僕の読んでいた後に出てくる人物かもしれません。


「いいえ違います。私はアナタから生まれた存在です。その証拠に私とアナタは影で繋がっているでしょう」


 僕の思考を読んでいるとしか思えない言葉、そして本当に僕と彼女は影で繋がっていました。それから先、僕から彼女が生まれたという事を飲み込むのを理解するのに、さほど時間は掛かりませんでした。

 僕は彼女に質問しました。


「君、ここは本の世界なんだね」


「そうでございます。ここは主の読んでいた【荒野に一人】の世界です。ここではアナタの思う通りに世界を書き換えることが出来ます」


「そ、そうなの……そんなことが出来るのか」


 理屈も原理も何も分かりませんが、もう何があっても驚きません。僕は目を閉じてある場所を思い浮かべました。そして目を開けると自分は学校の廊下に立っており、黒い甲冑を着た女の人も女子高生の制服に姿を変えていました。

 本当に思った通りに世界を書き換えることが出来ました。


「ふふっ、ふふふふっ、最高だ……僕の居場所を僕が作れるんだ……こんなに嬉しいことは無い」


 ここには自分虐める輩も、院長が死んで家族がバラバラになった事実も無い。何もかも辛いことは忘れて、僕の思い描く通りに生活することが出来る。そう考えると胸が躍りました。

 差し当たって赤い髪の女の人にこんな質問をしました。


「君、名前はあるの?」


「いいえ、私は主から名付けて頂きませんと、名前を持ちません」


「じゃあ、とりあえず仮で影壱号って名前にしておこう。安易だけど、とりあえずだから影壱号で」


「かしこまりました。私は今から影壱号です」


「さて……これから忙しくなるぞ」


 そうして僕は自分に都合の良い世界を作り上げ、時間も自分の過去、自分が何者なのかということも忘れて引きこもっていたのです。それは居心地がよく幸せな日々でしたが、時折虚しさも感じていた気もするんです。

 そうして僕は夢から覚める。

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