○嵐の傍らで 2

 一枚、また一枚と護符を引き裂きながら扉が開かれ、漏れ出した凍てつく冷気が聖堂を足元から満たしていく。

 司祭、聖堂騎士、大司教。殆ど同時に、聖職者達が無言で一斉に身構えた。彼等の視線は全て、古い扉の僅かな隙間に注がれている。


 トーリオの背後、仲間の一人ネイロットの目が大きくみひらかれた。自身の鼻から垂れた大量の血が石畳を濡らしている。

 聖職者達の幾人かが両手で口を抑え吐き戻す。或いは意識を失い昏倒する者もいる。


 聖堂に居合わせた人間はそれでも、同胞の身を案じる事はおろか、言葉ひとつ発せずにいた。

 扉の隙間から発されるおびただしい瘴気と研ぎ澄まされた殺意が、彼等から一切の挙動を奪い去っている。

 

 熟達の大司教、壮年の聖堂騎士、トーリオ達ならず者。立ち竦む誰もが肌で、本能で感じ取っていた。


 今、辛うじて自分達に許されているのは存在と呼吸のみ。


 故に、古びた扉の奥から近付く靴音だけをただ黙して待つしか出来ずにいた。




 永遠とも思われた絶望的な静寂しじまはしかし、扉を大きく開いた影によって終わりを告げる。


「おぉおぉ、大勢集まっとる」


 飄々とした、しわがれた声が聖堂に響き渡る。


「わしの様な老いぼれにこれほど手厚い出迎えとは……有り難い話よ」

 

 

 癖のある長い白髪を後ろでひとつに縛り、長身の老人は猫背を一度伸ばすと、片眼鏡を人差し指で上げた。


 我知らずトーリオの身体が総毛立つ。


 屍の様に白い肌。妖艶で深い真紅の双眸。洒脱で上質な貴族の出で立ち。

 彼本人が語らずとも、その容姿が何を示しているのかは明白だった。


 人間の仇敵、夜の簒奪者。この国では「深淵」と呼ばれる種族、吸血鬼。


 ならず者として放浪を続けるトーリオ達は、これまで幾度となく吸血鬼と対峙してきている。その殆どを辛くも逃げ切ってはいるが、討伐の経験もないわけではない。


 扉から現れた彼の者はしかし、これまでトーリオが目にしてきた深淵とは明らかに一線を画していた。


 別格且つ異質の圧倒的存在。

 生命が共存を拒む純粋な悪意。




「老いたとは言えなかなかどうして、わしの魔力もまだ捨てたものではないの」


 トーリオの恐怖など知る由もなく、吸血鬼は亀裂の入った柱のひとつを満足そうに平手で叩く。


「もっとも……銀の鉱脈が数多ある此処を封印の地とされた時は万策尽きたかと思うたが」


 感慨深そうに頭を垂れた後、「何にせよ」と吸血鬼は赤い眼で聖堂内を見回した。皺に飾られた口角は嬉々として上がっている。


「六十余年ぶりの解放とは、まこと清々しきものよ……」


 扉を囲う封印からは全ての人間が距離を取っていた。禍々しく濃密な瘴気は人の気を触れさせ、命を刈り取る力がある事など誰もが知っている。


 だが刹那、吸血鬼の姿は大司教の眼前にあった。

 垂れ下がった彼の髭を黒く長い爪で静かにいて微笑む。


「このガレニウス・ウェルガンテの華々しき再起の門出じゃ、お主達には恩赦を与える。この場におる誰の血も吸わぬ。勿論殺しもせぬ」


 老いた吸血鬼の戯れなど必要なかった。聖堂内にいる全ての人間が微塵も動けない。

 ただ、長身痩躯の影が悠然と彼等の間を歩き、出口を前にして夜の帳を眺める様を、止めどない震えと冷たい汗にまみれながら眺める事しか出来ない。


 やおらガレニウスが、背を向けたまま右手を体側に差し出した。掌を下へとひるがえす。


 乾いた音と共に転がり落ちたのは小さな一枚の歯車だった。

 音もなく自立した木製のそれに、合わさる様に別の歯車が何処からともなく産まれ出た。またその歯車に噛み合う歯車が現れ、徐々に巨大な形を成していく。


 ガレニウスは僅かに振り返る。その口許に湛えるのは、この上なく残忍な笑み。


な」


 希望を逆撫でする様に乾いた笑いを残し、夜の闇へと吸血鬼は掻き消える。

 残されたのは呆然と佇む二十余人の人間と、深淵の放ったおぞましい巨躯の傀儡くぐつだった。




「……ぐ……」

「くそ……!!」


 ガレニウスが発していた瘴気が薄まり、解き放たれた聖職者達の幾人かが石畳に膝をつく。


 司祭、司教、聖堂騎士。

 聖職者は皆一様に、生まれながらにして魔力の素質がある者で構成されている。彼等が聖法を扱える所以である。

 だが一方で魔力は繊細な力でもあり、外部からの影響や心身の状態が使用者に波及しやすい。


 それ故、ガレニウスが放った強い瘴気にあてられた彼等は、立つ事すらままならない者が殆どだった。


「……これほどまでとは……」

 

 震える手からランタンを滑り落とした大司教もまた、錫杖を握りしめて傀儡を見上げる。


 上位の吸血鬼が好んで用いる外法によって傀儡は産み出される。

 操り人形に酷似した外見と仮初めの生命を与えられ、知能を持たず吸血鬼の命令に盲従する深淵の先兵とされている。


 だが眼前の傀儡は人形の形すらしていない。


 確かに人間を模した頭部だが、巨大なそれらが思い思いを向いて幾つも結合している。下部には蜘蛛を思わせる脚が無数に生え、奇怪な巨躯を支えていた。


 不快な脚が俊敏に動く。同時に、頭のひとつが長い舌を伸ばした。

 巻き取られた不遇な司祭が、悲鳴を上げる間もなく裂けた口へと吸い込まれた。噛み砕く音に紛れてくぐもった絶叫がその口端から漏れる。


「う、うわぁぁぁ!!」

「や、止めて……」

「痛い……いだい……」


 頭部の結合体である以上、伸びる舌は一本ではない。

 対峙はおろか、逃亡さえ叶わない聖職者達が次々に舌で絡め取られ、生命と鮮血を散らしていく。

 聖堂内には血の香りと絶望が立ち込め、聖灯の青白い炎が無常に照らす凄惨な光景を前に、大司教は呆然と立ち尽くしていた。




「あんたが一番偉いんだよな?」


 不意の呼びかけに大司教は我に返った。

 阿鼻叫喚の中、眼前にまで駆け寄ったトーリオの不敵な笑みが青白く照らされる。


「報酬は弾んでくれよ、いいな!」


 返答を待たず、短剣を握った若者は石畳を蹴った。視線の先では巨大な傀儡が不快に蠢いている。


 多くの顔のうちのひとつが疾駆する彼を睥睨へいげいした。無機質に開いた口から舌が伸びる。


「おっと!なんだよ、思ってたよりも鈍いなおい!」


 血で赤く染まる舌が空を切った。身体を捻って捕縛を免れたトーリオは更に速度を上げる。

 背後から戻る舌が更に襲いかかった。トーリオは背後に目があるかの如く、僅か横へと跳んでかわす。

 一見闇雲に思える若者の疾走は、身に迫る危機のことごとくを軽やかに避けながら更に続いた。

 逃げ続けるトーリオに業を煮やしたのか、その姿を別の頭が認めた。必然、別の舌が彼を襲ったが、動きを捉えるには至らない。


 結果、視線が届く全ての頭が彼を標的に定めていた。足元を掬い、胴を巻き取り、頭を潰さんと無数の舌が集中する。


 襲い来る強撃に石畳が割れる中を器用に駆けながら、トーリオは依然として無傷のままでいた。

 そして、自身に殆どの視線が集まるこの時を待っていたかの様に口角を上げる。


「アルバ!」

「おう!」


 名を呼ばれた巨漢がありったけの力で両手斧を傀儡の脚に叩きつけた。二本の脚が撫で斬られ、苦悶に歪んだ全ての顔が金切り声を上げる。


「……んっ!」


 一方で、トーリオから請われずともイトルは彼女の役割を全うする。殊更に姿勢を低く、駆け抜けざまにアルバの斬った側と対になる脚を、細く長い剣で斬ってみせた。


「おわあ、やっちまったぁ!」


 奔走虚しく遂に長い舌に巻き取られたトーリオだったが、両手を上に掲げ、言葉とは裏腹に声音はどこか呑気にさえ聞こえる。


「おいおい……危ねぇだろ流石に……」


 余裕の理由はネイロットがぼやきながら放った矢だった。精緻な速射がトーリオを捉えた頭の両目を狂いなく射貫き、悲鳴が更に大きくなる。


 だがそれでも、傀儡は主の命令を完遂するべく不遜な若者を捕まえた舌を持ち上げる。同時に裂けた口がトーリオを噛み砕かんと大きく開かれた。


「そうそう、これを待ってたんだよ」


 生臭い吐息を浴びながらも、トーリオの表情には余裕が満ちていた。上げていた両手を背中のフードの中へと伸ばす。


 取り出したのは大司教の足元から拾い上げた一品ひとしな。聖灯が煌々と燃え盛るランタンだった。


 血走った傀儡の目が大きく見開かれる。


「お前らのご主人様だって震え上がる炎だ、呑み込んだらどうなるんだろうな?」


 意地の悪い笑みを浮かべたトーリオは、ランタンを傀儡の喉の奥目がけて放り投げた。

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