昼は人間の 夜は深淵の

待居 折

第一章 二代目の英雄

英雄と吸血鬼

 雲が分厚く垂れ込めた空、僅かな草木が疎らに生え揃う荒野。

 広漠と広がる灰色の景色を、冷えきった風が荒々しく吹き付ける。


 追い討ちをかける様に降り出した雨が兜を伝い、兵士は忌々しそうに舌打ちする。


「……最悪だな」

「同感だ。今時期の雨は芯に堪える」



 時節は初冬の頃合いである。


 次第に強くなった雨足はざあざあと音を立て、布陣した王国軍の体力を徐々に削っていく。

 兵士達が口から吐く息は白く、軍旗の先に吊るされたランタンが彼らを弱く照らす青白い炎だけが、この場にある唯一の暖かさに見える。


 だが軽口こそ叩け、兵士達の表情は皆一様に、緊張で固く強張っていた。時折、鎖帷子や金属鎧が立てる音だけが雨の隙間を縫う。



 最奥に構えた指揮官は布陣の先を強く睨んでいた。

 一方で、傍らの兵士達が覗いている遠眼鏡は前線とは別方向、西の山々に向けられている。


「……沈みます!あと二分!」

「全隊に伝令!二分後に日没、即時開戦!」

「承知!」


 指揮官の指示を受けた伝令達が、ぬかるんだ泥を跳ね上げて一斉に馬を駆った。

 幾つもの蹄が遠雷さながらに曇天を打ち鳴らす中、空気は刻一刻と緊迫していく。



 それは、極めて奇妙な光景だった。


 整然と並んだ五百の大隊が六つ。およそ三千もの人間が中央突破の陣形を組み敷く先に、対峙する相手は影も形もない。


 今はまだ。




 西の端に浮かぶ小さな大陸の全土を領土としながらも、ヴェルニーツァ帝国は栄華とは縁遠い。

 同程度の国土を有する諸国の半分程度の国力しか持たず、困窮に喘ぐ民衆も少なくない。


 農業や工業の水準は決して低くない。また、代々皇帝を世襲するランテヘルセン家は暴君でも暗愚でもない。


 では一体、何を以てして、帝国は停滞の最中さなかにあるのか。




 先ず初めにのは軍旗に吊るされた聖灯せいとうである。

 穏やかだった青白い炎が、風を受けないはずのランタンの中で大きく揺らぎ燃える。


「総員、構え!」


 部隊長達が号令する前には、殆どの兵士達が支給された武器を構えていた。

 長槍の穂先、腰に佩く剣の刃。

 或いは兜や鎧に至るまで、全ての鋼は僅かな銀を含んで鍛造されている。


 後陣に居並ぶ弓兵達は軍旗の聖灯を低く下げ、開いたランタンの中の炎を、矢の先端に点けてつがえた。

 雨足は強まる一方だったが、やじりは煌々と燃えている。


 稜線を滲ませながら、雲間を縫って太陽が沈んでいく。

 最後の陽光を惜しむかの様に、騎兵達が跨がる馬の何頭かが怯えていなないた。

 「どうどう」と宥める騎兵の声音は固い。


「日没!日没を確認!」


 かすれた声が本陣に響くと同時に、傍らの兵士が角笛を鳴らした。

 曇天を音高く貫いた低い音色に、呼応した帝国軍が一斉に大音声を上げる。



 最前線に構えた兵士達の眼前で、不意に闇が渦を巻いた。

 ひとつではない。

 幾つもの場所で、幾つもの闇がぐるぐると空間でうねっている。


 渦の中から、やおら人影が跳ね出た。


 丈の長いコート、ズボンとブーツ。

 殆ど全身を覆う鎧に身を包んだ帝国軍とは対照的に、出で立ちは狩猟時のそれに近い。

 五指の先から長く伸びた禍々しい爪までを保護する籠手のみが、唯一武装と呼べる形である。

 聖灯が照らし出す彼等の肌は白く、双眸は燃え上がる様な赤で塗り潰されている。


 闇から飛び出すや彼等は低く構え、咆哮を上げながら布陣めがけて疾駆する。

 その数、およそ千。展開するヴェルニーツァ帝国軍の半分にも満たない。


「前線、総員突撃!後陣、射て!」


 帝国軍は敵対勢力の力量を幾度となく思い知らされている。

 数の優位など、彼らを前に存在しない事も。

 故に一切の躊躇いなく、布陣の奥から青白い光の掃射が放たれた。




「昼は人間の、夜は深淵の」。


 海を挟んだ国々がヴェルニーツァ帝国を揶揄する言い回しであり、この文言は帝国の実情と逼迫ひっぱくの原因を的確に表している。


 夜が降ろすとばりと共に湧く様に現れ、人間の安寧を脅かし続ける吸血鬼。


 彼ら闇の眷属の別称こそが「深淵」である。



 世界歴1024年。ランテヘルセン帝政二十四年目のある日を境に、帝国は吸血鬼との交戦を余儀なくされてきた。


 断続的に続く熾烈な交戦にヴェルニーツァ帝国は疲弊を重ね、一日の半分、つまり夜の簒奪さんだつを許すに至っている。

 比肩する近隣諸国がないほどに広大な領土を持ちながらも、実質的に帝国の半分は深淵のものでもあった。


 そして世界歴1166年現在、歪に二分された帝国の歴史は既に百年以上も続いている。




 射かけられた矢の雨が、一瞬で深淵達の上空を蒼で埋め尽くした。

 燃える矢に射抜かれた身体が、激しい蒼炎にまみれながら断末魔を上げる。


 だが、そうした絶命は僅かに見られる程度だった。

 飛来した矢が身体を貫く前に、多くの深淵が身体を黒い塵と化し、雨に揺蕩い攻め手をいなす。


 無論、帝国軍は長い交戦の歴史から、彼らが暫く後に肉体を取り戻す事を学んでいる。

 故に、掃射によって足留めされている黒い塵へと、鬨をつくりながら一気に肉薄した。


 やがて実体化した深淵を待っていたのは、四方を隙なく囲む帝国軍兵士達だった。

 降りしきる雨を物ともせず、小隊長が苛烈に叫ぶ。


「油断するな、一気にかかれ!」


 軽装の吸血鬼一人に対して、直接対峙出来る人数だけで数十人。

 結果は火を見るより明らか。否応なく無惨な顛末が想像される。



「ぐあぁぁ!」

「うぐ……」

「う、腕がぁぁ!!」


 果たして戦場の至るところで、阿鼻叫喚の惨劇が始まった。

 そこかしこの水溜まりに、血の深紅が滲みながら色を加える。


 しかし一方的に凌駕しているのは、数では遥かに及ばない吸血鬼の方だった。

 


 姿形こそ酷似しているが、吸血鬼は人間とは根本的に別の生物である。

 人間を遥かに凌駕する膂力や視力、闇に身を散らし魔法を自在に扱う異能。全ての深淵がすべからくこれらを持ち備えている。


 故に、どれだけ数で上回っていようとも、帝国軍には微塵の猶予もなかった。

 一秒をも惜しんで急ぎ討ち倒さなければ、犠牲は刻一刻と増えていく。

 優れた武器を揃え入念に調査を行い、いかな周到に準備したと言えども、それら全てを個の力で易々と覆してくるのが吸血鬼という種族だった。



「き……来たぞ!睡蓮だ!」


 そして闇夜と化した戦場に、一旈の軍旗が翻る。


 青白い炎に照らし出されるのは、紫紺の布地にあしらわれた漆黒の睡蓮。

 帝国軍にとっての不吉の象徴。


 その軍旗がはためく戦場で、かつて人間が勝利した事はない。



 しかし、帝国軍とて辛酸を舐めてばかりではない。

 殊、今回の大規模掃討戦に於いては、かつてないほど士気を高め臨んでいた。


「総員、一対多の囲いを崩してはならない!陽は必ず登る、それまで決して焦らず呑まれるな!」


 凛とした声を轟かせ、布陣の中央、鞍上で苛烈に剣を振るう一人の人間がいる。


 名はフェルデン。ヴェルニーツァ帝国に名高い二代目の英雄である。

 三倍の兵力を以てしても尚拮抗する闇夜の中、仄見える勝利へと帝国軍を駆り立てる圧倒的存在。



「ようやく現れたか……随分待たせる」


 軍旗を背にした吸血鬼は、彼の姿を認めるや我知らず口角を上げる。


 名はノイラント。四大しだい貴族ネイズワース家の血を継ぐ南の吸血鬼。

 粗削りにして卓越した戦の才を有し、没落の只中にある家門を再び轟かせんと人間を狩り続ける、若き傑物。



「夜に咲く睡蓮も流石に見飽きたぞ」


 鞍上からフェルデンが吐き捨てれば、ノイラントも下から鋭い視線で彼を射抜く。


「墓標の支度は済ませてきたか?フェルデン」

「……私の名を覚えたか」

「敬意さ、僕なりのな。……ところで訊きたいんだが」


 ノイラントの口角が、これから始まるだろう嗜虐を思い歪む。


「この戦で人間は何人生き残ると思う?」


 返答の代わりに蹄の音がぬかるんだ泥を掻いた。

 殆ど同時に鞍上目がけて影が高く跳躍する。


 酷い混戦の中にあって二人だけの死闘が始まった。




 結果は壮絶極まった。

 フェルデンは死に、ノイラントも代え難いものを失う。


 だが、は死なない。


 この事実を、ノイラントは長い時間をかけてっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る