エピローグ:追憶の天秤は、再び

あれから、五年という歳月が流れた。

ファーニヴァル王国は、新たな王レイドンの統治のもと、目覚ましい復興と発展を遂げていた。

彼はまず、英雄アルフレッド将軍の名誉を回復し、歪められた歴史を正しく修正した。そして貴族制度を改革し、身分に関わらず才ある者が登用される道を開いた。

税制も見直され、民の暮らしは豊かになった。王都には活気が戻り、子供たちの明るい笑い声が響き渡っている。


人々は、彼をこう呼んだ。

『賢王レイドン』、と。

国を愛し、民を愛し、そして亡き『星降りの聖女』を、生涯ただ一人愛し続けた、孤独で高潔な王。


彼は決して、王妃を迎えようとはしなかった。

その隣に立つべき者は、ただ一人しかいない、と。


そして、かつて『嘆きの湿原』と呼ばれた場所は、今や王国で最も美しい場所となっていた。

瘴気は完全に浄化され、そこには色とりどりの花々が咲き乱れている。人々はその地を、こう呼ぶようになった。


『アリアの庭』、と。

国の聖地として、訪れる者が後を絶たなかった。


その日、レイドンは一人、王都の下町を歩いていた。

王であることを隠し、簡素な旅人の服を身に纏って。

彼が向かう先は決まっていた。

かつて彼女が、その短い時間を過ごした、あの小さな店。


『追憶の天秤亭』。


店は今、カレルが引き継いでいた。

彼は、しがない仕立て屋を早々に畳むと、この店で遺物の鑑定士として、そして『遺物守り』の王都におけるまとめ役として、静かに暮らしている。


店の扉を開けると、カラン、と懐かしい鈴の音がした。


「……これは、これは。陛下、自らのお越しとは。光栄の至りにございます」


カウンターの奥で、カレルが人の好い笑顔で頭を下げる。


「寄るな、カレル。今日はただのレイドンだ」

「これは、失礼を」


レイドンは、店の隅の椅子に腰を下ろした。

店の中は、あの日と何も変わっていなかった。

窓辺にはあの銀のロケットが、今も静かに飾られている。


「……サラとリヒトは、元気にしているか」

「ええ。二人とも、それぞれの場所で元気にやっておりますよ」


カレルは、紅茶を淹れながら答えた。

サラは『遺物守り』の新たな長となり、王国全土のネットワークを束ねている。

そしてリヒトは、王宮の近衛騎士団長として、若い騎士たちの育成に励んでいる。

セバスチャンもまた、今は悠々自適の隠居生活を送っているという。


誰もが前を向いて、自分の道を歩んでいる。

自分だけが、まだあの日のまま、時が止まっているような気がした。


「……陛下」


カレルが、淹れたての紅茶をレイドンの前に置いた。


「一つ、鑑定をお願いしたいものがあるのですが」

「鑑定?」

「ええ。近頃、旅の商人から買い取った古い人形なのですが……。どうにも、その『声』が私にはうまく聞き取れなくて」


カレルは店の奥から、一体の古い布製の人形を持ってきた。

それは、かつてガラクタ市でアリアが出会った、あの少女が持っていた人形によく似ていた。


「……貸してみろ」


レイドンは、人形を手に取った。

そして、目を閉じる。

彼にはアリアほどの力はない。だが、彼女と魂を共鳴させたあの最後の戦いの後、彼にもまた、遺物の声を微かに感じ取る力が宿っていたのだ。


(……温かい。これは……)


流れ込んできたのは、母と娘の深い愛情の記憶。

そして、その奥にもう一つ、別の記憶があった。


――ガラクタ市で、一人の黒髪の少女がこの人形を優しく修繕している。

『大丈夫よ。あなたは、もう、独りじゃない』

その声は、アリアの声だった。


「……この人形は」

「ええ。あの時の少女が大人になり、そして幸せな家庭を築いた後、旅立つ際に『次の寂しい子の元へ』と、この人形を旅に出したのだそうです」


カレルの言葉に、レイドンの胸に温かいものがこみ上げてきた。

彼女の優しさはこうして、今もこの世界のどこかで、誰かの心を温めているのだ。


「……ありがとう、カレル。良い鑑定だった」


レイドンがそう言って立ち上がろうとした、その時だった。


カラン、と店の扉が再び開いた。

入ってきたのは、一人の幼い少女だった。

歳は、五つか六つくらいだろうか。

豊かな琥珀色の巻き毛に、鳶色の大きな瞳。

その姿は驚くほど、あの日初めて出会ったアリアの面影に似ていた。


少女はレイドンとカレルを交互に見ると、その小さな唇で、はっきりと言った。


「……こんにちは」


その声。

その響き。

間違えるはずがない。


「……アリア……?」


レイドンが、震える声で呟いた。

少女は、その言葉にきょとんとした顔で首を傾げる。


「……アリアって、なあに?」


彼女には記憶がないようだった。

だが、その魂の輝きは間違いなく彼女のものだった。

あの最後の瞬間に彼女が使った『時間遡行』の術は、彼女自身の魂を消滅させるものではなかったのかもしれない。

あるいは、彼女のあまりにも強い愛が、神の気まぐれか、あるいは禁書の最後の計らいか、新たな奇跡を生んだのかもしれない。


それは奇跡ではなかった。彼の魂の一部に、彼女が生きているのだから。魂が魂を呼び合うのは、必然の宿命だった。


彼女が今、ここにいる。

その事実だけで十分だった。


レイドンの目から、再び熱い涙がこぼれ落ちた。

だが、それはもはや悲しみの涙ではなかった。


彼は、少女の前にゆっくりと膝をついた。

そして、その小さな手をそっと取る。


「……初めまして、お嬢さん。私の名はレイドン」


彼は、今まで誰にも見せたことのない、心の底からの優しい笑顔で言った。


「もしよろしければ、君の名前を教えてはくれないだろうか」


少女は、少しだけはにかむと、愛らしい笑顔で答えた。


「……わたしのなまえは、――」


夜明けの光が満ちる、この美しい世界で。

追憶の天秤が再び、温かい愛の記憶で満たされる、その日まで。

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役立たずと追放された地味な遺物鑑定士、国宝級の秘密を解き明かしたら氷の侯爵様に過保護に溺愛されています 楓かゆ @MapleKayu

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