第13話
◆現世に存在する天国と地獄
「天国や地獄は“あの世”にあるもの――そんなふうに思い込んでいませんか?」
そう問いかけるのは、宗教学者の北嶋晃也教授だ。
「仏教やキリスト教では、天国や地獄は死後の行き先として語られますが、実際には、“この世”にその象徴としての場所が数多く存在してきました。たとえば、箱根山。江戸時代まで“地獄谷”と呼ばれていたことをご存じでしょうか?」
硫黄の臭いが立ち込める箱根の大涌谷。地鳴りがし、白煙が上がるその風景は、人々に“あの世”を連想させた。実際、古地図や紀行文の中では、箱根を越える旅人が“地獄を踏む覚悟”を語る記録も残っている。
「一方で、現世の“天国”もまた各地に存在します。たとえば極楽浄土のイメージと重ねられたのが、京都の東山にある清水寺や、長野の善光寺など。人々はそこを“死後の救い”の疑似体験として巡礼したのです」
つまり、我々が“あの世”と信じている場所は、実は現世の延長にあるのかもしれない。
異世界転生作品に登場する「地獄のような場所」や「天界のような都市」もまた、そうした“現世の中に見いだされる天国と地獄”の記憶を下敷きにしている可能性がある。
「異世界とは、“この世”に刻まれた“あの世”の記憶なのかもしれませんね」
教授は、そう締めくくった。
文・構成:山田ソウタ(ライター/文化誌「リレキ」編集部)
撮影:斉藤明里
* * * * * * * * * *
第13話 おかしらと王様
さらに南へと進む。
風が変わった。潮の匂いが鼻先をくすぐり、耳にかすかに波の音が届く。
緩やかな坂道を上りきると、ぱっと視界が開けた。遠くに広がる青い水平線。小さな漁村の向こうに、海が見えた。
「わぁ……海だ……!」
リラが思わず声を上げる。目が輝いていた。
「海、好きなの?」と俺が聞くと、リラは少し照れたように笑ってうなずいた。
「うん。なんか、好きなの。理由はよくわからないけど……」
「分かる気がする。テンション上がるよな、海って」
「ね、なんかね。言葉にできないけど、好き」
潮風が二人の頬を撫でていく。
――多分、あれが相模湾。あの小さな島影は……江の島、かもしれない。
漁村に着くと、シャムは手際よく馬を厩に預け、代わりにいくらかの銀貨を受け取っていた。
わずか半日の付き合いだったが、馬たちには妙な愛着が湧いていた。別れ際、俺は馬の首筋を撫でて、心の中でそっと感謝を伝えた。
そのまま、港の外れにある小さな渡し場へと移動する。渡り船が一艘、川岸に控えていた。
猫族の船頭とシャム、ミケが猫語でにゃあにゃあと盛り上がっている。俺たちには鳴き声にしか聞こえないが、不思議と和やかな空気が漂っていた。
俺とリラはその様子を見守りつつ、シャムの合図で荷物をひとつずつ船に積み込んでいく。馬に載せていた道具袋や、食料の詰まった革袋、布にくるまれた道具類。どれも丁寧に扱われていた。
シャムは最後に銀貨を数枚、船頭に渡す。
受け取った船頭は満足そうにうなずき、櫂を手に取った。
「乗れ」
シャムの短い一言に、俺とリラは船に乗り込む。ミケはすでに船首に座り、風に顔を向けていた。
船は静かにきしみながら動き出し、鏡のような水面を滑るように進んでいった。
ふと、ミケの視線の先を見ると、対岸に人影が見えた。
和装に帯刀――攘道党の男だ。馬が三頭、木に繋がれている。
渡し船が岸に近づき、船底が岸を擦る音がすると、ミケが真っ先に飛び降りた。
そして、そのまま男に跳びつく。男は初老の日本人風で、目を細めてミケの頭を優しく撫でた。
「おお、ミケや。いい子にしてたか?」
発されたのは、きれいなエスペラントだった。
――まるで、孫と祖父。あるいは、ご主人様を迎える忠実なペットのようにも見える。
「あれ、“おかしら”。前の首領」
荷物を降ろしながら、シャムがぽつりと説明してくれた。
「ハルトさんとリラさんですね?」
男が歩み寄りながら、右手を差し出してくる。礼儀正しく、それでいてどこか威厳があった。
「はい。……あなたは?」と俺が握手に応じると、彼は穏やかに笑った。
「“おかしら”とお呼びください。いつの間にか、それが名前のようになってしまいましてな」
「“おかしら”、おかしら!」
ミケが楽しげに舌足らずな声で繰り返す。
「馬を用意しています。今から出れば、日が沈む頃には到着できるはずです」
おかしらは軽やかに馬にまたがり、その後ろにミケが器用に飛び乗る。
残る馬二頭に、俺とリラもそれぞれ乗った。リラはシャムの背に、俺は荷物を積んだ馬に単独で。
――“おかしら”。
山賊の首領と聞いて想像していたのは、筋骨隆々の粗暴な大男だった。
だが今、俺たちの前にいるのは、白髪混じりの穏やかな初老の紳士。
その人柄は、危険というより、むしろ……どこか懐かしい、優しさを感じさせた。
馬の背に揺られながら、俺はおかしらに尋ねた。
「俺たち……どこに向かってるんですか?」
おかしらは、ゆっくりと馬を進めながら穏やかに答える。
「箱根山と丹沢山の麓、小田原の北に拠点を構えております。今はそちらへ。着きましたら、食事の席を用意しておりますので、まずは腹ごしらえを。そして、温泉で旅の疲れを癒してください」
「……それは、有難い話です……」
あまりに丁寧すぎる対応に、かえって困惑する。
人質として連れてこられたはずなのに、まるで客人のような扱いだ。これは本心なのか、それとも……。
リラが率直に疑問を口にした。
「私たち、向こうに着いたら何をさせられるんですか?」
おかしらは一拍置いてから、やわらかな口調で答える。
「王の話し相手になっていただきます」
「話し相手……ですか?」
リラが目を瞬かせる。
「施策の助言などを求められることもあるかと。王は“外の人間の考え”というものに強い関心をお持ちでして」
なるほど――それは、異世界転生者としての知識に期待しているということか。
「……監禁されたりとか、そういうことは?」
リラが少し身を強ばらせながら訊く。
「外出の際にはシャムを“通訳兼監視役”として同行させます。それ以外は特に制限はありません。どうか安心してください」
表向きには、客人扱いのようだ。
不安が完全に拭えたわけではないが、少なくとも最悪の想定よりはずっとマシだと感じた。
海沿いに西へ行く。潮風の匂いが馬上の俺たちの鼻をくすぐる。
しばらく進むと遠くに川の流れが現れた。その上流には、砦のような石造りの関門が見える。山と川に挟まれたその地形は、まるで天然の要塞のようだった。
関門に近づくと、兵士たちが警戒の目を向けたが、おかしらが馬上から一声かけるだけで、あっさりと通された。
「なんとか夕食には間に合いそうですね」
傾き始めた太陽を見ながらおかしらが言った。
川沿いに北へ向かって進むと、あたりは開けた農村地帯となり、再び砦を一つ越えた先に、木製の橋が現れた。
橋を渡り、川下に広がる城下町を遠目に眺めながら、目的地に向かう。
山の麓に建つ一際大きな屋敷。そこが、王が暮らす屋敷だという。
ちょうど日が沈むころ、屋敷の正門に辿り着いた。
門の前には、和装に身を包んだ門番が二人、背筋を伸ばして立っている。
馬を降りると、すぐに武器の回収が行われた。
「こちらでお預かりいたします。ご安心ください、帰る際にお返しします」
儀礼的な応対だったが、それでも緊張は残る。
俺が腰のトンファーを渡す横で、リラも静かにスカートの端に手を添える。
裾を少しめくると、太腿に巻かれていた革のホルダーが露わになった。
彼女は慣れた手つきでホルダーを外し、そこに収められていた数本のクナイごと門番に差し出す。
「これで全部です」
軽くそう添えてから、リラはそっとスカートを戻し、門番に一礼した。
「我々は、お食事が終わるころに迎えに参ります」
おかしらが丁寧に頭を下げる。
おかしらとシャムたちとは、いったんここで別れることになった。
俺たちは屋敷の中へと通される。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
中居のような服装の男が、落ち着いた口調で先導する。
案内されたのは、だだっ広い座敷だった。宴会場のような縦長の空間の中央に、二人分だけの膳がぽつんと置かれている。
「こちらでお待ちください」
男は軽く頭を下げ、そのまま襖の向こうへと去っていった。
部屋の中には、俺とリラ、そして静寂だけが残された。
用意された料理にはまだ手をつけられず、膳の前に正座したまま、二人で黙って時を過ごす。
しばらくして――。
ガラリ。
襖が音を立てて開いたその瞬間、俺とリラは、無意識のうちに座布団から滑り落ちていた。
正座のまま、反射的に頭を床に付ける――それは礼儀などではなかった。ただただ、入ってきた男の“気配”に打ちのめされ、体が勝手に動いてしまったのだ。
沖田さんの放つ“殺気”とは違う。
もっと静かで、もっと絶対的で、抗うという発想すら許されないような――“格”の違い。
空気が重い。呼吸の仕方すら分からなくなるような存在感。
「カッカッカッ……和人(わじん)よのぉ。面を上げい」
通る声が、朗々と響いた。
日本語――それも、時代がかった、どこか芝居がかって聞こえる言い回し。
ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは――全身に威光をまとった男だった。
背は高く、痩身。髪は黒々とし、総髪を後ろで結っている。
金と黒を基調とした和装はきらびやかだが、派手さよりも品格を感じさせる。
鋭く吊り上がった目が、こちらを面白そうに見下ろしていた。
まるで、絵巻物からそのまま抜け出してきたような――。
「さて。問題じゃ。……我は誰であろうか?」
男は、にやりと笑って言った。
“我”。
自らを王と名乗る口ぶり。
“和人”という言葉遣い――明治以前の感覚を持っている人物。日本人に違いない。
だが、“王”という呼称がひっかかる。
日本の歴史において“王”は存在しないはず。
天皇を自称するならば、もっと違う言い方をするはずだ。
あるいは、中国の皇帝になぞらえているのか。
思考を巡らせていると、男は楽しげに口元をほころばせた。
「ふーむ。では、三択にしてやろう──。“鳴かぬなら――”」
王は王でも、覇王にして魔王と称された戦国武将。
ある意味、日本人にとってもっとも“異世界的”な存在。
第六天魔王──
「──織田……信長……様」
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