第9話 黒板の数字
それは、何の前触れもなく始まった。
四月のある朝。
春の風がまだ冷たさを残すその日、阿部翔太は他の誰よりも早く校舎に足を踏み入れた。
昇降口の扉を押し開けると、足音が廊下に乾いた音を残す。新学期が始まってから数日が経ち、ようやく校舎の空気も生徒の体温に馴染みつつあったが、この時間帯だけはまだ静寂が支配していた。
阿部は階段を二段飛ばしに駆け上がり、1年B組の教室のドアを開けた。
カーテンは半分だけ開かれていて、窓の向こうから斜めに差し込む朝日が、まだ冷えた教室の空気をじんわりと温めていた。
教室全体が薄金色の光をまとい、誰もいないその空間には、どこか神聖さすら感じられるほどだった。
机の列は静かに整えられている。
黒板の前には、昨日の授業の余韻もなく、ただ無言のまま時間が止まっているように思えた。
阿部は自分の席に向かいながら、ふと――何か違和感を覚えて足を止めた。
「……ん?」
視線が吸い寄せられたのは、黒板だった。
薄く反射する朝日を受けて、そこには見慣れない“赤”が浮かんでいた。
赤チョーク。
連絡事項や日直の名前を書くために使われる白ではなく、授業で大切な部分を“目立たせる色”。
その赤で、黒板の左右に――こう書かれていた。
1
16
まるで左右に鏡映しのように、極端な距離をとって書かれた二つの数字。
「1」は黒板の右下に小さく、それに対して「16」は左上にやや大きく、角度もバラバラに記されていた。
明らかに“ただの落書き”ではない。
だが、これが何を意味するのかも分からなかった。
(……誰だよ、朝っぱらから)
阿部は眉をひそめた。
誰かの悪ふざけか、あるいは先生の準備ミスか――いや、どちらにも当てはまらない気がした。
書かれた文字は、無駄な飾りもなければ、ふざけた要素もない。
ただ“そこにある”だけ。感情も遊びも排除した、機械的な印象すらあった。
「1」「16」――
日付でもない。教科でもない。番号札でもない。
(暗号か?カウント?)
あれこれ推理を巡らせるものの、何ひとつ確かな情報にはたどりつかない。
そしてその“不明確さ”こそが、阿部の中にじわじわとした不安を湧き上がらせていた。
ほどなくして、数人のクラスメイトが教室に入ってきた。
「おはよ……あれ、なに?」
「うわ、赤チョーク?誰の仕業?」
「イタズラ?何の数字?」
やがてざわめきが教室内に広がっていく。
黒板を見上げた生徒たちは、最初こそ冗談めかした声をあげていたが、そのうち声のトーンが変わっていくのが阿部には分かった。
「これ、日付……でもないか」
「ねぇ、先生が書いたってことある?」
「え? でも先生、こんな左右バラバラに書く?」
みな言葉にはしないが、“気味の悪さ”を無意識に感じていた。
誰が、何の意図で書いたのか。その意味がわからないまま放置されていることが、彼らの心に小さな刺のような不快感を残していた。
「先生を呼んでくるわ」
阿部はそう言い残し、職員室へ向かった。
歩きながらも、何度も数字の配置を思い出そうとする――右下に「1」、左上に「16」。
この並びに、何か意味があるとしたら……?
数分後、担任の穂積先生が緩い足取りで教室に現れた。
生徒からはある程度信頼されているが、どこか“見て見ぬふり”が多い大人でもある。
「……お、なんだこれ?」
「先生、今朝来たらもう書かれてて……誰も見てないです」
「ふーん……」
先生はメガネを少し上げ、黒板を見つめる。
「1に……16、か。赤チョークってのがまた目立つな」
一拍おいて、肩をすくめる。
「ま、誰かのイタズラだろ。新学期って、こういう目立ち方したがる子、必ずいるからねー」
そう言うと、何のためらいもなく黒板消しを手に取り、数字を消してしまった。
そして、何事もなかったかのように教壇に立つ。
「じゃ、気にしなくていいぞー。朝のHR、始めるからな」
生徒たちは「……ああ、そんなもんか」と思いつつも、どこか消化不良のまま着席した。
けれど、阿部だけは黙って窓の外を見つめていた。
あの色。
あの配置。
あの、意味のわからない数字。
(……あれ、ただのイタズラじゃない気がする)
言い知れない違和感が、阿部の胸に小さく沈んだまま、消えることはなかった。
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