第8話 意外な理由

一方その頃、教室の後方。

窓際の最後列で、ひとりの女子生徒が無言でペンを走らせていた。


鈴木彩。


小さく揺れる黒髪の下、伏せた目元に迷いはなかった。

白く整った紙面に、彼女はためらうことなくこう書き込んでいた。


第一希望:演劇部

第二希望:なし

所属理由:衣装を作りたいから


以上。

余白を埋めようともしなければ、飾り立てる気配もない。

無駄な言葉は、彼女の辞書には存在しないのかもしれない――そう思わせるほど、潔く簡素な文面だった。


「演劇部、なんだ?」


その静寂を破ったのは、教室の中ほどから歩いてきた斎藤竜馬の声だった。

彼女の用紙をちらりと見て、驚いたように言った。


教室の空気が、また静かになる。

わずかに筆の動きが止まり、話していた女子たちの声がピタリと消えた。


斎藤竜馬が、鈴木彩に話しかけている――

その事実だけで、周囲の関心はすべて一点に集中していた。


「……うん」


彩は顔を上げず、短く答えた。

それ以上の言葉を付け足すつもりはないという意思が、声から明確に伝わっていた。


「衣装作るの、好きなんだ」


「別に好きってほどじゃないけど……縫うのは嫌いじゃないから」


斎藤は小さく笑った。


「なんか、いいね。意外な個性」


その言葉に、彩は少しだけ顔を上げる。

竜馬の表情は、飾り気のない優しい笑顔だった。


すると、隣の席から、不意に声がかかった。


「ねえ……」


振り向くと、吉本栞がこちらを見つめていた。


「うちの姉、演劇部に入ってるんだけどさ。今、衣装係が誰もいないんだって。ずっと困ってるみたいで……。手伝ってくれる人がいたら、助かると思うんだ」


栞は小さく笑った。

彼女の微笑みは、まるで言葉の代わりに「ありがとう」と囁いているようだった。

声には出さずとも、その優しさは確かに伝わってきた。


教室の端の女子たちの表情には、好奇心と警戒、そしてほんのわずかな安堵が入り混じっていた。


――演劇部?


思っていたのとは違った。

無口で、クールで、何を考えているかわからない首席女子。

そんな彼女が選ぶのは、美術部か文芸部……あるいは帰宅部とすら予想していたのに。


それが「演劇部」?

しかも理由が「衣装を作りたいから」?


「……演劇部なんだ」


「ふーん……意外と、地味っていうか……文化系だよね」


「ってことは、部活では竜馬くんと絡まないってことじゃん」


「よかったー……マジで」


声は低く、表情もそれほど変えないまま――けれど、言葉の奥には確かな“安堵”がにじんでいた。


誰も明言しない。

けれど、心の奥にひっそりと根づいていた不安が、今まさに取り払われようとしていた。


斎藤竜馬と鈴木彩。

副委員長という立場上、関わりが生まれるのは避けられないと分かっていた。

だからこそ、それ以上に接点が増えること――たとえば部活動など――で“二人の距離が近づいてしまう”ことに、少なからず危機感を抱いていたのだ。


だが、彩が選んだのは演劇部。


球技でもなく、運動部でもなく、文化祭や公演の準備にひたすら没頭するような文化系の世界。

当然、サッカー部とは校舎も活動時間も、世界観すらも交差しない。


そのことが、彼女たちの無意識の焦りを静かにほどいていった。


「ほんっと、マジで助かったって感じ」


「ね。演劇部って衣装係とか裏方だよね? 前に出る感じでもないし」


「てか、あの子って地味じゃん。竜馬くんとは……釣り合わないし」


誰からともなく出たその言葉に、数人の女子が小さく笑った。

その笑みには、揶揄でも侮蔑でもなく、ただ“自分が安心したい”という感情が透けていた。


その頃、彩はというと――無言で用紙を鞄にしまい、席を立とうとしていた。

その動きには迷いがなく、誰の視線にもまったく頓着していなかった。

それが「最初から決めていた選択」だったことが、その所作だけで明らかだった。


(あの子……やっぱり群れないんだね)


(ていうか、そういうところが逆にズルいよね……)


そんな感情を押し殺しながら、女子たちはそれぞれの机に視線を戻した。

だが、次の瞬間――別の種類の沈黙が、教室に落ちた。


「……斎藤くんって、やっぱサッカー部だよね?」


「うん。幸太郎くんに誘われて即決してたよ」


「ってことはさ……サッカー部、マネージャーとか……あるよね?」


誰かが言ったその一言に、周囲の女子たちの目が揺れた。


「……あ、私、それ書こうかな。サッカー部マネージャー」


「え、私も考えてた」


「どうしよう、かぶるかな……てか、二人とか三人でもいいのかな、マネって」


先ほどまで“安堵”で結ばれていたはずの空気が、次第に“火種”へと変わっていく。

演劇部に進んだ鈴木彩に対して、「自分たちはまだ竜馬と接点を持てる」という考えが、女子たちのなかでゆっくりと芽を出し始めたのだ。


やがて、ペンが走り始める。


【第一希望:サッカー部(マネージャー希望)】

【理由:マネージャーとしてチームを支えたいから】


教室のあちこちで、ほぼ同じような文言が用紙に書き込まれていく。

その字は整っていて、どこか“見せる”ことを意識した丁寧さがあった。


(でも、やっぱり人数制限あるよね……)


(推薦とかあるのかな)


(先着順だったら、早く出したほうがいい?)


そんな思考が教室内をひそかに駆けめぐる。

表情は無風を装っていても、女子たちの内心は静かな競争モードに突入していた。


その様子を遠巻きに見ながら、美緒がポツリとつぶやく。


「……なんか、面白くなってきたね」


小さな声。けれどそれは、鈴木彩の耳にも届いていた。


彩は無表情のまま、鞄のチャックをゆっくりと閉める。

その瞳の奥に、何を思ったのかは誰にも分からない。

ただ、その横顔は、誰よりも静かで、そして――誰よりも冷めていた。


(この学校でも、“そういうの”は変わらないのね)


窓の外では、夕陽がグラウンドの端を照らしていた。

そこでは、サッカー部の2年生たちが軽くボールを蹴り合っている。

その輪に、すぐに斎藤竜馬の姿が加わることを、誰もがもう当然のように理解していた。


そして、その“輪”のそばに立ちたいと願う者たちの戦いは、すでに静かに始まっていた。

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