裏切りと絶望
裏切りと絶望
静寂の中、ぬるりとした泥水の感触が全身を包む。
皮膚にまとわりつく湿った冷気。朦朧とした意識の中、翔は再びこの世の感覚を取り戻し始めていた。
「……う、あ……」
割れた唇から、掠れた声が漏れた。
全身は痛みの塊だった。骨がきしみ、皮膚の至るところに裂傷が走り、内臓すら位置を間違えているような感覚。
それでも、彼は生きていた。
(死んでない?)
ゆっくりと、重いまぶたを開ける。
見慣れぬ天井。いや、天井ではなかった。岩肌のような、湿った洞窟のような空間。
「……おお、生きておるか。運の良い奴じゃな」
太く低い声が、洞窟の奥から響いた。
視線を動かすと、そこには異形の存在、灰色の肌に漆黒の角を持つ、屈強な魔族の男が立っていた。
だが、翔は恐れなかった。
むしろ、自分の中に渦巻く何かが、その存在を懐かしむように震えた。
「お前は、誰だ」
翔が絞り出すように問いかけると、魔族の男は微笑を浮かべて膝をつく。
「我が名はゴルザン。この地を守る古き者のひとりよ。そして、お前こそが」
彼はそこで、神聖なものを見るような目で翔を見た。
「我らが主、魔王の魂を宿す器」
「……は?」
「お前は選ばれし者だ。いや、正確には、お前こそが、前代の魔王の転生体」
その言葉は、あまりにも突拍子もなく、現実離れしていた。魔王の転生体などと言われても前世はただの日本の高校生だったはず。
だが翔の中に眠っていた何かは、その言葉に共鳴するように脈打った。
(そうか。だから、俺は……)
思い出せない記憶。けれど、血が騒ぐ。
裏切られ、殺されかけ、そして何もかも失った。
憎悪が渦巻く、疑ってはいたが背中を預け命をかけて守り、守られながら短い間とはいえ長い旅路を共にし、同じ食事をし、喜びも苦しみも一緒に乗り越えたと思っていたはずの仲間が。信じたかった。いや、もう信じていたのに。
ならば、この力に縋ってでも、俺の全てを取り戻すしかない。
「信じろって言っても、無理があるだろ。魔王の転生? 冗談だろ」
そう吐き捨てながら、翔は腕を支えに起き上がる。
肋骨が折れているのか、鋭い痛みが走る。
「だが、奇妙な話だと思わんか?」
ゴルザンが静かに続けた。
「人間の勇者が、魔族の猛毒を受け、崖から落ちて、ここまで傷だらけになりながらも、生きている」
「………」
「我ら魔族ですら、この毒を受ければ死ぬ。まして人間が、生きてなどいられるはずがない」
翔は黙っていた。言い返せる言葉が見つからなかった。
だが、真実はひとつ。自分は生きている。
この痛みが、憎しみが、否定しようにも現実だと告げている。
「お前の中は確かに魔王が眠っている。そして、それは目覚めようとしている」
ゴルザンの言葉と同時に、翔の胸の奥、心臓の裏側から、黒い炎のような感覚がじわりと広がった。
(…これは)
身体の中で、何かが暴れようとしていた。
それは熱でもなく、痛みでもなく力だった。
「我が器よ。目覚めよ。契約の時は来た」
低く、威厳に満ちた声が、再び頭の中に響く。
「お前が望むならば、我が力をくれてやろう。裏切られた者よ。憎しみによって、真の力に目覚めるがいい」
その瞬間
翔の身体から、黒い魔力の奔流が解き放たれた。
洞窟全体を包むほどの魔力が、空間を震わせる。
「くっ……! なんという……!」
ゴルザンが驚愕の声をあげた。周囲の岩がひび割れ、床が震える。
翔の瞳が、赤く染まっていた。
そこにはもはや、ただの高校生だった“黒崎翔”の面影はなかった。
「ちから…これが、俺の?」
拳を握る。筋肉が膨張し、裂けた皮膚が瞬時に再生する。
呼吸をするだけで、周囲の魔力が吸い込まれていくようだった。
「お前はもう、ただの勇者ではない。魔王の器、それが、お前の本当の姿だ」
ゴルザンが膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「なら、聞かせろ」
翔が低い声で問う。
「俺が、この力を使って、奴らを潰すには、どうすればいい?」
それは、かつて仲間を信じていた少年の声ではなかった。
裏切りに全てを奪われ、復讐を誓った魔王の目覚めだった。
その夜、翔はひとつの事実を知らされる。
「召喚の儀式で、他の生徒が……?」
翔の声が震える。
「そうだ。お前を異世界へ召喚するために、数十人の魂が生贄に捧げられた」
魔族の長老が静かに告げた。
翔の脳裏に、学校で笑い合っていたクラスメイトたちの顔がよみがえる。
誰かの声。誰かの笑顔。そして、もう決して戻らない時間。
「嘘だろ、なんで……!」
拳を床に叩きつける。岩盤が砕け、粉塵が舞う。
「彼らは罪なき者だった。召喚術は魂の等価交換。お前一人を呼ぶために、同じだけの命が必要だった」
「一体誰が!」
「光の教会。それが勇者召喚を行なった女神信仰の教会だ」
翔の内側で、何かが崩れた。怒り、悲しみ、そして深い後悔。
(あの時、俺は皆んなはどこへ?と聞いた。こんなことが起こるなんて。いや、違和感はあった。しかし俺は逃げていただけなのかもしれない)
すでにこの世にいない友人との会話が、表情が翔の頭を埋め尽くす。
自分のために、無関係の人間たちが、あの優しかったクラスメイトたちが、犠牲になっていた。
馬鹿だとふざけ合うこともできない、あいつらはもう笑うことも、起こることも、悲しむことも、もう。
「……許さない」
翔は震える声で呟いた。
「あいつらも、王国も、光の教会も…全部、許さない」
立ち上がる。
漆黒の魔力が、翔の背中に翼のように広がっていた。
かつての無力な少年は、もうそこにはいなかった。
勇者として冒険して、いくら傷つく国民達と出会い、言葉を交わしてもどこか遠く感じた。
自分の世界ではないから、そう思っていた。
しかし覚悟は決まった、俺の生きる世界は、俺の墓場はこの世界だ。
「…やってやるよ。徹底的にな」
復讐の火が灯った。
それは、決して消えることのない焔となって。
そして、翔は歩き出す。
地獄のようなこの世界で、もう一度生きるために。
殺すために。
すべてを取り戻すために。
夜が明けようとしていた。
だがこの地に、朝日は差し込まない。
翔が目覚めたのは、魔族の支配する「忌みの谷」と呼ばれる場所。死者の眠る大地。陽光を拒絶する灰色の空。
彼は、洞窟の外に立っていた。
傷だらけだった肉体は、もはや完全に再生されている。
体の奥に満ちる力は、かつての自分とは比べものにならなかった。
「魔王の器、か」
低く、嗄れた声で呟く。
自分が魔王の転生体であると、そう聞かされたとき、翔はすぐには信じなかった。
けれど、湧き上がる力。呼応する記憶の断片。
何より、裏切られたという痛みが、それを否応なく現実へと変えていく。
彼は、自分の中で確かに何かが変わったことを自覚していた。
優しさは消えていない。ただ。
それはもはや、「正義」のために使われるものではなかった。
「勇者から魔王か。俺は一体何のために、皆は一体何のために、こんな世界なんかのために」
「……ライオン、マリア、セリア……」
三人の顔が脳裏に浮かぶ。
旅の間、共に戦い、笑い合い、命を預け合ったはずだった仲間たち。
信じていた。あいつらが俺のことを裏切るなんて、思いもしなかった、今まで向けられた表情や言葉は嘘だったのだろうか。
だが現実は。
毒を盛られ、崖から突き落とされた。
「魔王を倒した英雄」の座を奪うため、愛を、友情を、信頼を、すべて踏みにじられた。
「あのとき、笑ってたよな、俺が崩れ落ちていくのを見ながら……」
握った拳が、魔力の震動を帯びて地面を砕く。
「なら……もう容赦はしない」
翔の背から、黒い翼が広がる。
それは羽ではなく、魔力そのものが形を成した闇の化身。
空間を歪ませるほどの魔力の奔流が、彼の周囲を包む。
「我が主よ。道を示せ、それが破滅の道であろうとしても」
背後から、魔族の王子。ルシファー・モーニングスターが歩み寄る。
飄々とした物腰、だがその瞳には鋭い光が宿っていた。
「お前が生きていてくれて、心底嬉しく思うよ。翔。……いや、魔王様とお呼びすべきか?」
翔は、皮肉めいた笑みで応じた。
「そんな器でもないさ。……ただ、裏切られた者なだけだ」
「ふふ、だがその裏切りこそが、最も美しい力を生みだした。だからこそ、我らはあなたを迎え入れたのだ」
ルシファーの言葉に、翔は一瞬だけ瞳を伏せた。
「……力だけじゃ、救えないものもある。けど」
瞳を開くと、そこには強烈な意志が宿っていた。
「力がなければ、何も守れない。何も取り返せない。……だったら俺は、魔王になってでも手に入れてやる」
その宣言に、ルシファーが静かに笑った。
「良い。実に良い。我が主に相応しいお言葉だ。では、まずはこれを」
差し出されたのは一振りの剣だった。
漆黒の刀身に、赤い紋章が浮かび上がる。
手にした瞬間、剣と翔の魔力が共鳴する。
(…懐かしい? なんでこんな……)
それは前世の記憶。
この剣は、かつての自分が、世界を震撼させた時に使っていたもの。
「名を、デモンブリンガー。魂を喰らい、憎しみを刃に変える剣だ」
翔は静かに頷き、その剣を腰に携えた。
「……ルシファー。協力してくれるのか?」
「当然だ。我ら魔族は力を重んじるが、恩を忘れぬ。それに」
ルシファーは口元に笑みを浮かべる。
「あなたが、真の敵『光の教会』に立ち向かうならば、それは我らにとっても希望だ」
「教会……」
翔の瞳が鋭くなる。
自分が召喚されたのは、教会の主導で行われた儀式だった。
だがその実態は、勇者という名の道具を作るための殺戮儀式。
クラスメイトたちは、翔を召喚するための生贄にされた。
あの時、教皇アレクサンダーと呼ばれる男は言っていた。
「すべては、神の御業だ」
ふざけるな。
神を騙り、人を殺し、平和の名のもとに支配を行う、それが正義か?
「ならば、俺は悪になる。偽善を塗り潰す、真の魔王として」
翔の瞳に、深い紅の光が灯る。
「ルシファー。まずは……」
「最初の復讐対象、ですね」
翔は頷いた。
「マリア・スペルキャスター。教会の密偵、そして、裏切りの魔法使い」
旅の中で、一番冷静で知的だった少女。
だが、すべては演技だった。
最初から教会の命令で自分を監視し、裏切りの計画に加担した。
その事実を思い出すだけで、翔の内から怒りが沸騰する。
「次に会うときは、味方としてじゃない」
「ええ。復讐対象として、ですね」
漆黒の翼を広げ、翔は空へと舞い上がった。
重力を無視し、夜空を貫くように昇るその姿は、まさしく魔王だった。
ルシファーはその姿に瞳を奪われ、静かに首
復讐の始まりは、ここからだ。
ただの高校生から勇者として、関係はなかったこの世界の安寧を望み、命をかけて戦っていた慈悲の瞳はもうなかった。
いま翔にあるのは、憎しみと誓い、そして力。
すべてを奪ったこの世界に、彼は復讐の炎を灯す。
「待ってろよ、マリア」
その声は、風に溶けて、深く暗い夜の空に消えていった。
奪われた勇者、魔王として全てを奪い返す 。 @sioribi_books_0
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