第一章「夢」 4-②

4-②


「あ、お邪魔します」

「うん、いらっしゃい」

 結局元々買った食材でも二人分作れそうだったので、買い物はせずそのまま家に向かいました。途中渡した買い物袋を彼から受け取ろうとしましたが、彼は一向に渡してくれず、仕方がないので傘だけ持って道中を歩きました。雨は止んでいましたが、彼が傘を差したので私も差すと、三分くらい経って再び雨が降り始めました。

「散らかっててごめんね。あとそれ、もらってもいいかな? 持ってくれてありがとね」

「はい、お願いします」

 彼からようやく買い物袋を受け取り、ものによって冷蔵庫に入れたり整理をしていると、彼がソファに座ろうとして、やっぱりやめて自分の荷物を整理している姿が横目で見えました。ホテルでは遠慮せずに座っていたのにここでのそういう姿を見ると、意地悪でもう少しそのまま様子を見ようなんて考えもしましたが、彼の配慮や優しさに付け込むのは今の段階では止すことにしました。私たちはまだそういうことをし合えるほどの距離感に至っていないことは、慣れない冷静な思考でもなんとか思い及びました。

「ソファ、適当に座ってね。テレビとかもつけて自由にくつろいでていいから」

「はい。ありがとうございます」

 その後四十分ほどでシチューは出来上がり、他のいくつかの品物と一緒に並べて食卓を共にしました。普段シチューやカレーを作るときは一時間以上を要し、本当だったら今日も遅めの夕食にしてたっぷり時間をかけようと思っていたのですが、こういう日ですから必要最低限の時間で仕上げ、味の染み込みのためにかけられなかった時間の分は他の簡単な品物で埋めました。

 その間彼は何度か準備を手伝おうとしてくれましたが、あなたはお客様だという理由でキッチンに入ってくることを拒み、ゆっくりしていることを再度要求しました。時間短縮したといっても四十分はまあまあ長い時間ですから、することがない彼は段々居心地が悪くなったのかもしれません。テレビで地上波のバラエティー番組をつけたと思えば特にリアクションをするわけでもなく、ずっとスマートフォンを操作しているわけでもなく、ただシンプルに、私の準備が終わるのを待っているようでした。

 それを私にプレッシャーを感じさせないように色々と四苦八苦している姿がとても印象的でしたが、とにかくそんな姿を見て早く仕上げようと思ったのと同時に、今日のこの空間の最大のイベントは、夕食後に訪れると彼よりもちょっとだけ豊富な人生経験が訴えかけてきました。

「めちゃくちゃ美味しいです。シチューだけじゃなくて他も」

「ありがと! 残しても仕方ないから今日中に食べちゃおうか」

「ホントですか。じゃあ、おかわりもらっちゃいます」

「うん、どうぞどうぞ」

 そんな風にして、食卓の時間は穏やかに過ぎていきました。なんだか既に今まで何度もこういう時間があったという軽い錯覚を起こしつつ、だけども改めて自分の家に彼がいる感触は新鮮でやっぱり今が初めての時間なんだなと事実を再認識しつつ、この後はどういう流れになるのだろうと頭の片隅で考えながら目の前の食事と会話に興じつつ、穏やかな時間は終わりを迎えました。

「ごちそうさまでした。洗い物は僕がやりますね」

「ううん、いいよ。私やるからゆっくりしてて」

「いえ、さすがに僕にやらしてください。それとももしかして、台所にやましいことでもあるんですか?」

「……しょうがないなあ。じゃあ、お言葉に甘えてゆっくりしてるね」

 こんな風に予定調和のような言い方をしていますが、内心は本気で自分で洗い物をする気でした。それは彼をお客様として最大限もてなそうという意識ではなく、彼と同様に、ゆっくりすることに居心地の悪さを感じたからでした。自分の家にもかかわらず、ソファにかけてテレビを見ているとなんだか落ち着きませんでした。たぶんそれはこのふわふわとした不安定な空間で、少しでも余裕がある方が次の展開を起こさなくてはならないという強迫観念のようなものに駆られていて、それほど心に余裕がなく、それほどこの後に起こる展開が、いくら想像しても全く浮かび上がってこないからでした。

「元気だった? この、半年間」

「はい、元気でした」

 そうして結局私は、この質問に逃げてしまうのでした。話題がないわけではないのに、聞きづらい事柄が多いわけでもないのに、勇気か自信か、それとも恐れのような感情が邪魔をして、彼に対して唯一明確に勝っているはずの、人生の経験から来る余裕を奪っていくのです。彼と同じか、それともそれ以下に、この状況を持て余してしまうのです。

「元気そうで、よかったよ」

「はい、お互い様に」

 水が食器に当たる音が、段々と大きくなっているような気がしました。テレビの音量をちょっとずつ上げるように、彼がお皿を洗う音が、この空間に鳴り響きました。そのままでいい、むしろ私たちの会話を遮るくらい大きな音が出てほしい、そんな風に考えて、台所に立つ彼の背中を見る自分が情けなくて、でもその背中を見ていると、やっぱり彼を招き入れてよかったと、何の根拠もないのに自然とそう納得している自分がいて、居ても立っても居られないわけでもないのに、私は立ち上がって、彼の方へ近付きました。

「矢崎君、手伝おうか?」

「いえ、もう終わりそうなので大丈夫です」

 水の音は、別に大きくなってはいませんでした。彼の方に近付いたからかもしれませんが、彼の声は何の障害もなく、私の耳に届いてきました。私は立ち上がった不自然を誤魔化すために冷蔵庫を開け、少しだけ飲み物を飲み、また冷蔵庫を閉めました。

「いいところですね、小野寺さんの部屋」

 不意に聞こえた彼の声は、水の音に邪魔されて、よく聞こえませんでした。

「僕、もし実家出たら、こういう部屋に住みたいです」

 そのとき、洗い物が終わり、水道の音が消えました。だから彼の声が聞き取りづらいのは、他の音に邪魔されたからではないとすぐに気付きました。

「ねえ、矢崎くん」

「はい」

 だから、はっきりさせようと思いました。駅から離れた閑静な住宅街のここならば、私たちの会話を遮るものは何もない。

「私のこと、もう一回……、呼んでみてくれない?」

 もしかしたら隣の住人が聞いていようと、この静かな空間ならば、彼の声をはっきり聴けるはず。

「小野寺……、さん」

 彼は、そう言いました。そう、はっきりと聞こえました。

「もう一回、言って」

 でも、はっきりとは、言ってませんでした。

「茜、さん」

 それを聴いて、私はもう一度、この後の展開を想像してみました。

「手拭くの、そこのタオル使ってね」

 そして、はっきりと、一つの情景が思い浮かびました。

「先に行って、待ってるから」

 彼が手を拭く音が聞こえました。彼の息を吸う音が聞こえました。

「はい、茜さん」

 彼の声が、そっと、耳の中に入っていく音が聴こえました。


「なにか、準備することとかってあります?」

「ううん、大丈夫だよ。……強いて言うなら、心の準備かな」

 そう言いながら寝室の電気を消し、ベッド脇にあるランプをつけて明かりを調節しました。彼が腰掛けるスペースができるよう、掛け布団を端に寄せ、私も端に寄りました。

「シャワーとかも、大丈夫ですか?」

「終わった後は大体浴びるけど、する前は人それぞれかな。私は大丈夫だけど、矢崎くんがそうしたいなら合わせる」

「なるほど……。じゃあ、とりあえず……、大丈夫です」

「うん、わかった」

 そう言ったものの彼は所在なさげに立ったままだったので、空けたスペースに座るよう促しました。彼は一瞬だけ遅れて気付き、少し慌てて、私の示した場所に腰掛けました。

「すみません、何から何まで……」

「全然大丈夫だよ。まあでも、やっぱり緊張するよね」

「……はい。めちゃくちゃ恥ずかしいですけど」

 前回同様彼の視線は私を向いてはいませんでしたが、今回は明らかに、泳いでいるが故にその視線は外れていました。

「もうちょっと、寄っていい?」

「はい。あ、すいません」

 言葉通り彼の方に近付くと、ようやく彼はこちらを向きました。意識させないようにそっと瞳を覗くと、さっきまであれだけ落ち着かなかったのに、覚悟を決めたようにずっしりと私を見据えたのがわかりました。

「肩の力、抜いてね」

「はい」

 それを見て私は、彼の頬にてのひらを置きました。彼はそれを拒むことなく、少しだけ肩に力を入れて、行動に応えました。

「キスも、初めて?」

「……はい。初めて……、です」

 そうして私は、彼と唇を重ねました。

 その瞬間は案外あっさりとやってきましたが、今までのどんな口付けより、まるで夢を見ているような、淡い味がしました。

「……茜、さん……?」

 私はほんの少し前まで、この瞬間は私が先頭に立つべき場だと信じて疑いませんでした。

「……ううん、ごめんね……」

 なのに今私は、おそらく彼よりも、おそらく世界中の誰よりも、この瞬間に心を委ねていました。

 きっと、世界中の誰よりも、純粋な気持ちで彼と一つになっていました。

「ちょっと、嬉しくなっちゃって……」

 今度は彼の方から、空いた隙間を埋めるように唇を重ねました。

「ありがとう、寛也、くん」

 ゆっくりと時間をかけて彼は私の肩に手を置き、シャツを優しく脱がせてくれました。

「……経験ないって言ってたのに、随分、様になってるよ」

 あらわになった下着から漏れた乳房を、こんなにも速い鼓動のまま誰かに見せるのは、初めてのことでした。

「茜さんの、教えてくれた通りにやっただけです」

 右手で彼の左頬をさすると、また一つ、涙が溢れました。

「今日のこと、忘れないでね……?」

 彼は私の涙を拭い、彼もまた、私の頬を摩りました。

「忘れません。たとえ、これが夢であったとしても」

 頬を撫で合いながら、もう一度、ゆっくりと口付けを交わしました。

「たとえ、これが白昼夢であったとしても」

 目を閉じると、彼の唇が乳房に届きました。

 それ以降はまるで夢のように、一つ一つの感触が、私の肌から永遠を奪いました。


 そうして私たちは初めて、同じ夜を共に過ごしました。長いようであっという間な時間でした。一言で言い表すなら、それはまさに余韻でした。彼の熱を受け入れ、私の熱を伝え、時間はあっという間に過ぎていきました。話していたときも彼との時間はあっという間でしたが、私たちは初めて男女になったことで、その時間は鮮明になりました。そしてそれこそが、紛いなりにも年月を経て人生を重ねて見つけた、私の余韻でした。彼の世界に入り込み、取り入れ、共有し、後は少しの吐き出しがあれば、私は報われました。彼の望みと私の望みは、指の先さえ合わさればそれでよかったのです。

 以降の私たちは、ただ、時の流れに身を任せました。会いたいときに会い、ご飯を食べたいときに一緒に食べ、そういう夜が来たら、そういう夜を過ごす。彼は初めての後もしばらく、始める前にベッドに腰掛けると肩に力が入っていました。しかし頬に掌を置いて口付けを交わすと、その力は自然と抜けました。その度に私は、彼のことが好きになりました。仕事中でもそれ以外のときでも、彼のことが頭から離れなくなりました。そんなときはそっと、彼の小説を読むのです。そうすると私の肩の力も、自然と抜けていくのです。それが彼の小説の魅力であり、それっぽい言い方をすると、おもむきなのです。彼の小説を読んでいくうちに、段々とそれがわかるようになった気がしました。他のは読まずただ彼の小説だけを読んでいくうちに、私は彼と、それから小説を始めとする物語の世界に、どんどんと引き込まれていきました。

 そんな日々が一つ一つと歩みを重ね、いつの間にか、それが日常となりました。彼の小説を読む時間も、小学生のような感想を漸く伝えられるようになった時間も、彼が小説のことを話し、ただただ私が聴いている時間も、一分一秒に感情を育みました。夏を越え、秋を待ち、冬を受けて、また、春がやって来ました。私たちがそのような間柄になってから大体半年が経ち、やがて共に夜を明ける日が増えてきました。それに合わせてそれぞれの生活にも相応の変化が生まれてきて、それによって、あることを決める足掛かりにもなりました。彼は週に一度や二度、多いときには半分ほどを自分の家から自転車で十五分の私の家まで通っていたのですが、ほとんどが泊まりだったので、その必要はないという結論に至りました。

 つまり、私たちが恋人になってから半年が経ち、私たちは心身共に、生活を共にする関係になりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る