第一章「夢」 4-①
4-①
「ただいまー」
鍵を開け、電気を点けた西荻窪のマンションの一室に、当然、待ち人はいません。お店でたくさん煙を吸い込んだシャツには焼肉の香ばしい匂いが残っていましたが、それを処理する前に一度、ソファに倒れ込みました。世間の人々と同様に週末の訪れに
先ほどまで飲食を共にしていた相手に心配を施したメッセージを送ると、約十分間をそのままソファで
それなのに私の中には、どこからか孤独の感情が沸き上がっていました。こうやって長い時間を人と過ごし家に帰った後、私は孤独感に
私が今一番したいこと、それは、彼の小説を読むことです。彼から小説のデータを貰ってからもう数ヵ月は経っていましたが、最近はなかなか読み進めることができませんでした。もちろん忙しすぎて読む時間が全くないわけではなく、昼休みや通勤の時間を使えばいくらでも読む機会は確保できましたが、なんとなくそれは自分の意思が許しませんでした。彼の小説は、日常の隙間時間ではなく万全に整った非日常の一時で読みたい、彼との時間は、現実ではなく非現実の中で過ごしたい──、そんな狂信的にも思える感覚で身構えていたら、
皆様もお察しの通り、私がこのようなことにこだわっているのは、その時間が彼との繋がりを感じる唯一の瞬間だからです。もう既に書き記しましたが、私と彼はあの日以来、連絡を取り合うことはほとんどありませんでした。あの日の後、感謝を伝えるメッセージは送りました。彼からの返信も間を空けずに来て、その後も二、三日は何気ないやり取りを続けていました。
しかし一度やり取りが途切れると、それ以来、どちらからも新たな発信はありませんでした。
私個人的には、あの日に私たちの関係を変える出来事が起こったとは思いませんでした。もちろん彼を強引に呼び出し、ホテルにまで誘導したのは私の失態です。それで私に対して抵抗感が芽生えたと言われても致し方ありませんが、私はそのホテルでの時間に、はっきりとした手応えを掴んでいました。今までとは違う二人だけの時間を過ごし、身体ではない特別な関係を築けたと思っていました。朝まで付き合わせたのは申し訳なかったですが、その後のいくつかのメッセージのやり取りの発信は実は彼からでした。夕方頃に起きて彼の小説の冒頭部分を読んでいると、彼から感謝を伝えるメッセージが届きました。それもあって小説を読むのを中断し、それからも二、三日は彼とのやり取りに心情が傾き、肝心の小説への集中が落ちてしまいました。
そんなこんなで彼との繋がりが次第に薄れていく中、私に残されたのは、彼の小説以外には何もありませんでした。彼の刻んだ一文字一文字が、私に残された唯一の非日常であり、非現実でした。
その分、私は彼の文章を読み込みました。読み進むのが遅くなってもいい、内容が飛び飛びになってもいい、その分彼の小説を、何度も何度も読み返しました。何度も読んだからこそ気付いたのですが、彼はとても細かい部分にまで神経を集中させ、精巧な文章と物語を構成していました。まずは大まかな面で言うと、彼は一ページの文字数を17行×40字になるように調整していました。PDFやWordのファイルになると二ページ分になるので34行に置き換えられるのですが、これがどうやら彼が気に入っている行数と文字数のようです。理由はわかりませんが、おそらく彼の感覚において読みやすい文字の配置なのでしょう。次に文章については、漢字とひらがなを使い分けることで物理的な強度を差別化していたり、大事な一文や単語を埋もれさせないようにページ中央部に置くなど、細かい配慮がなされていました。物語についても、伏線や暗示などは言うまでもありませんが、例えばミスリードや章の
そんな風にして今日も、
そういった感想を彼が求めているかはわかりません。実は彼は深く考察するのが好きで、私などが抱くような感想などなんの感性の足しにもならないかもしれませんが、それでも私は時間をかけて、ゆっくりと、彼の文章を読み込むのです。日常の隙間に訪れる束の間の自分だけの時間を、心
だけど、だからこそ、私は彼の小説に
皆様は、さぞ私を
しかし、一つだけ、強がりを言わせてください。
彼は、一度でも、私を受け入れてくれたのです。私だけに、大切な時間を費やしてくれたのです。
その忘れ形見である小説を生きがいにすることは、果たして許されざる罪でしょうか。
秋雨の兆しがモヤモヤとなって表れたある雨模様の夜、珍しく予定がなかった金曜の夜に乗じて真っ直ぐ西荻窪に帰り、たまにはじっくり料理でもしようかと駅前のスーパーで買い物をしていました。久しぶりに時間に追われない買い物だったので値段を見ながらゆっくり商品を選んでいると、商品棚を挟んだ
一度はやり過ごすつもりでいました。彼はこちらに気付いていなさそうでしたし、もう買う商品は大体買い物かごに入れ終わっていましたし、そもそも彼とは連絡が取れないわけではなく、ご飯に行こうなどと言えば今日ではなくても会える状態でした。それなのにわざわざ偶然の機会を使うのは、言い方が悪いかもしれませんが効率が悪いですし、第一、久々の再会に対して私の心の準備が整っていませんでした。セルフのレジで会計を済ませて買った商品を袋に詰めていると、彼もセルフのレジで会計をしている姿が見えました。商品を全部袋に詰め終えると、彼も会計を終えて袋に詰めにこちらに向かおうとしている姿が見えました。
私は袋を提げて、出口の方へと足を向けました。今日はクリームシチューを作ろうとにんじんや玉ねぎやジャガイモが入った袋は少し重かったですが、それとは別に、出口の方に向く足も重くなりました。後ろを振り向く度胸はなく、ちらちらと確認する勇気もなく、しかしそのまま真っ直ぐ帰る意志もなく、道中にあった商品棚の角を曲がり、まだ何かを探している雰囲気を出して店内に留まりお茶を濁しました。これで彼が帰ったら帰ったで仕方がない、じゃあ他にどんな行動があるかと問われれば何も思い付きませんが、とにかくそのときの私が取った行動は、兎にも角にも、ただその場に居座って時が来るのを待つだけでした。
そうです。結局私はそのとき、彼と話したかったのです。装ったわけでもなく本当に偶然の再会を、彼と分かち合いたかったのです。ただ最初のタイミングを逃し、時間が経つごとにその純粋さが薄まっていき、私はどんどん身動きが取れなくなりました。
だから私は、偶然に頼るのをやめました。今の状況を客観的に整理し、自然とか不自然ではなく、事実だけを伝えることにしました。
「矢崎君」
「あ、小野寺さん!」
袋に商品を詰め終えた彼がたまたま自分のいた方へと歩き出したのを見計らって、私も彼の方へと歩き出し、堂々と声をかけました。
「買い物してたらたまたま見かけて声かけちゃった」
「そうだったんですね、わざわざありがとうございます」
「久しぶりだね、元気にしてた?」
「はい、元気です。小野寺さんもお元気そうでよかったです」
他の通行人の邪魔にならないように端に寄りつつ、私は自分の家の側の出口へと歩き出そうとしました。
「外出るのこっち?」
「はい、そっちからで大丈夫です」
彼の確認を取り、改めて歩き出しました。彼の家は駅の西側ですが私の家は東側なので、ここからの帰り道は通常だと別々になるのです。
「今日は何の買い物?」
「明日の朝食と昼食です! 小野寺さんは?」
「今日の夕食。シチュー作ろうと思って」
「そうなんですね! これから作るんですか?」
「うん。これから作る」
彼は優しいので、多少遠回りしつつ私に合わせてくれていたのだと思います。来たときよりも混雑してきた店内を出て、一度駅を経由して南口に出ました。
「家、方向そっちだよね?」
「はい、そうです」
西の方向を指し示すと、彼は受け流すように肯定しました。雨は一時的に止んでいて、ただそれに気付いていない元々外を歩いていた人もいて、傘を差しているかどうかは人によってそれぞれでした。
「ご飯は、もう食べた?」
「いえ、まだ食べてないです」
先ほど指し示した方向にある、雑多な飲み屋街が目に入りました。西荻窪に引っ越してから数年経ちますが、まだ足を踏み入れたことはありません。
「西荻もおいしいお店、たくさんありそうだよね」
「そうですよね。あんまり行ったことはないですけど、いつも賑わってるイメージです」
左手の持ち物が、とても重く感じました。朝からずっと
「またご飯、誘ってもいい?」
これがなければ、今、誘えたのに。
「はい、もちろん。西荻も吉祥寺も、おいしいお店、探しましょう」
これさえなければ、今から、思う存分探せたのに。
「うん、そうだね」
横を通り過ぎた男性が雨模様を見て、歩き出すと同時に傘を差しました。また少しずつ雨が降り始めて、歩いている最中の人もぽつぽつと傘を差し始めていました。
「……シチューとかカレーって、一人暮らしだと結構、余ったりするんですか?」
「え?」
彼がポツリと、そう言いました。私の頭にポツリと、大きめの雨粒が落ちてきました。
「うん、そうだね。何日かに分けて食べるけど、三日目くらいになると大体飽きてくるから余計に残っちゃう」
もう一粒、袋を持つ左手に当たりました。そろそろ差そうかと右手を動かそうとすると、彼の口が動く気配がして、右手を止めました。
「もし……、よかったら、」
街中の色々な音と混ざりながら、彼の声が聞こえてきました。コンクリートを踏む足音と、傘に当たって鳴る雨音と一緒に、彼の音が聞こえてきました。
「僕も……、一緒に食べてもいいですか……?」
初めて、だったかもしれません。
彼の方から、そういうことを、言ってくれることは。
「それは、うちでって、……こと?」
「はい。茜さんの、おうちで」
その声は、今までよりもはっきりしたように聞こえました。
「じゃあ……、もう一回、買い物しなきゃだね」
私も私で、できるだけはっきりと伝えようと思いました。だけどやっぱりなんだか気恥ずかしくなって、こんな風に、どこか遠回りな言い方をしました。
「二人分、買わなきゃだから」
彼はそっと、右手を私に差し出しました。
「荷物は、僕が持ちますね」
傘を差そうとした右手は、やっぱり動かさなくて正解でした。
だってもうしばらくは、差す必要がなくなったのですから。
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