第一章「夢」 5-①
5-①
随分と長く説明し続けてきたので、てっきりこれまでの話が現在進行だと思われたかもしれませんが、私たちが同棲を始めたのは今から二年前のことであり、今に至るまでの二年間は、私にとって一つの過去になります。しかし、この二年間は今までとは違う価値観を知った後での初めての過去であり、その上で、私の人生で最も深淵な過去になることでしょう。
よってこれからは、少し押し付けがましくなるかもしれませんが、彼と私の二年間を、お話させていただきます。
同棲生活が始まると、私は彼にある提案をしました。彼は口には出さなかったですが、アルバイトの多忙さで執筆の時間があまり確保できないようで、それを時々ストレスに感じているようでした。
そこで生活の云々は私に任せて、自分のやりたいことをやってほしいと言うと、一度は却下されました。彼としては、どんなにアルバイトに勤しんでも収入では社会人の私には及ばず、それならば割り切って私の収入だけで生活して、自分は執筆に集中するという、私も口には出さなかったですが、ある意味情けをかけるような私の提案の意図を見破り、アルバイトは継続すると言いました。もちろん私としても、その提案は彼のプライドを傷つけることになり、私の自己満足でしかないのはわかっていました。彼の性格から言えば、私にだけ負担をかけさせるような状況は避けるでしょうし、しかし私の立場から言えば、彼に必要以上の負担をかけさせたくはありません。何より、私は彼の小説が読みたくて仕方がないのです。最初に読ませてもらった物語以外にも彼には幾つか作品があり、そのどれもが私にとっては、彼のために相応の苦労を捧げても構わないほどの意味を持っていました。私には彼の小説が、本屋さんに並ぶどんなベストセラー本より価値があり、世間を賑わすどんな流行物より夢中になれるのです。だから、何度も言いますが、彼の執筆を妨げるものは、出来得る限り私が排除するべきなのです。
それを彼に伝えると、一度は難しい顔をしましたが、そこに私の率直な感情があることを悟り、話を聞いてくれました。結果的に、完全に辞めはしませんでしたが、週に五日はしっかりとした執筆の日を取れるようになりました。平日は基本的に私が仕事なので、一緒に居る時間は長くはありません。しかしその間に彼がまた新しいお話を紡いでいるかと思うと、単純な私は日中に精を出せるのです。帰ったら彼が出迎えてくれると思うと、平日の
もう少し、具体的なお話をしましょう。私が夢に見た理想の日々、即ち彼の執筆を見守り、彼の執筆を肌で感じ、彼の物語を私だけが堪能し、何よりもただ彼と二人だけで過ごす時間は、現実の出来事になりました。仕事の日の朝、私はいつも六時半頃に起床するのですが、隣で眠る彼を起こさないようにこっそり布団から出ても、十分後には彼が起きてくるのです。朝食にあり付きたいから起きてきたなんて冗談を飛ばすと、茜さんの寝起きが悪くてゴソゴソうるさいから起きる羽目になったなんて言って反抗してきて、結局二人で朝ご飯を食べるのです。私が家を出る準備を済ませるとお見送りしてくれて、ちゃんと執筆しないと後で叱るなんて言って脅したりもしたけれど、仕事中は私の方が今彼はどんなお話を書いているんだろうなんて考えて、仕事が上の空になる始末でした。
仕事から帰ると、まず彼は私を出迎えてくれます。それがたとえ執筆中であろうとも、執筆を中断して私の元までやって来てくれて、買い物袋をリビングまで運びながら一日を労ってくれます。その後私が夕食の準備をしていると、稀に彼が手伝いに来てくれるのです。そういう日は大抵、執筆が上手くいった日です。私が「今日はどんなお話書いたの?」と訊くと、「後のお楽しみです」と言って一旦はぐらかされるのですが、夕食とお風呂を済ませるとまずテレビを少し一緒に見て、夜のニュースが始まったくらいになると私をベランダに連れ出すのです。そうして外の空気を感じながら、今日はどんな展開や演出を思いついたかだとか、それに至る繋がりが上手くいったかだとかを嬉しそうに話すのです。それに対して私も今日一日あったことなどを負けじと話すのですが──逆に執筆が上手くいかなかった日であっても、私の一日の出来事などを話して必ずこの時間を共有していました──、必ずと言っていいほど彼は結びに、私に対して感謝を述べてくれました。自分が今執筆出来ているのは私のお陰だと、こうやって満足いくものが書けるのは、私の存在のお陰だと、本当に心から言ってくれるのです。大体一時間か、長いときは二時間近く話して部屋に戻り、諸々の雑務を済ませて布団に入り、最後に寝室の電気を消す前に、そっと唇を重ねるのです。
こんな日々が、夢以外の何物でありましょう。私の人生において、これほど心に平穏と興奮が訪れることなど、今までなかったのはわかっていただけると思います。確かに、生活は華々しくはありません。二人で暮らすのがちょうどいいくらいのこぢんまりとした住居と、時間と資金を持て余すことのない質素な食事と娯楽は、ある意味日本的と言いましょうか、他人様から見た「理想」と乖離しているのはやむを得ません。しかし、私にはそれで充分なのです。都会の
夢や理想は、確かに実現するのは難しいことかもしれません。全員が全員、最初に抱いた夢を追いかけられるわけではありません。自分の限界に気付いたり、他人や環境に陥れられたりして、夢は目標へと換わり、目標はノルマへと照準を合わせ、私たちの現実へと降りてきます。
でも、ノルマの何が悪いのでしょうか。私たちが一日一日を精一杯生きていくことの、何が悪いのでしょうか。だって社会では、ノルマを達成した先に目標があり、目的や戦略という言葉の
ただ一つだけ、少しだけ、押し付けがましさを許してもらえるのならば、私の新しい夢は、彼の描く世界と恐ろしいほど共鳴したのです。私がこんなにも自分の考えのようなものを押し出せたのは、彼の描いた物語が、小さな夢に
私の平穏や興奮は、傍目から見れば良くも悪くも映るでしょう。流行や風潮にはどんどんと置いていかれ、職場の同僚や他の友人との話も段々とついていけなくなりました。テレビやインターネットを見ていても、理解や受け入れるといった話ではなく、単純に知らないものが増えました。他人からの眼を気にしなくなったまでには至りませんでしたが、少なくとも自分の生活を、誰かに
その一方で、私が完全に魅入られたように、そういった考え方が鳴りを潜めていても、社会の至る所に存在していることは確かです。物を極力処分したり、情報を遮断して自分の生き方に没頭する人々がいるように、「小さな夢」と「自分らしさ」は、別にマイノリティな考え方ではありません。かつての私が圧倒的な充実を望んだのと同じように、逆に今の私は、安らかな平穏と静かな興奮を求めています。そんな誰かのために、彼は物語を描くのです。私のためではありません。彼は湧き上がる自らの欲求と、同じく平穏と興奮を求める全ての「夢」と「自分らしさ」のために、物語を描き続けます。それが彼の充実であり、それを見守り、肌で感じ、誰よりも早く堪能することが、私の充実です。
だからこそ、私は彼の成功を応援しています。彼がいつの日か、たくさんの人々を感動させる小説家になることを願っています。私はおそらく、彼とあのような偶然の出会いがなかったら、今でも今までと同じ生活を送っていたでしょう。彼と出会い、彼の見ている世界や考え方を知ったからこそ、今までは知り得もしなかった世界を知り、新しい価値観を得ることができたのです。人生を捧げてもいいと思うほどの、仕事や遊び以外の新しいやりがいを見つけたのです。
こうして私たちの二年間は、あっという間に過ぎていきました。朝起きて、彼が起きてきて、一緒に朝食を食べて、彼に見送られて、仕事から帰ると彼が出迎えてくれて、買い物袋をリビングまで持ってくれて、たまに夕食を作るのを手伝ってくれて、お風呂に入ったら少しテレビを一緒に見て、それが済むとベランダで今日一日あったことや、日によっては彼の作品のことを話して、眠くなったら二人で布団に入って、最後に口付けを交わして電気を消す──、そうやって私は、夢を知ったのです。この日々こそが幸せなのだと、この時間こそが最高と呼ぶに相応しいと、自分なりの夢を見つけたのです。現実しか知らなかった私は、見ていなかった私は、まるで
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