2-8. 陽菜の賭け
それは、壮絶な時間とのレースだった。
俺は、描いた。描き続けた。
眠気も、空腹も、忘れていた。思考は、楽譜とキャンバスとパレットの上の色彩、その三点だけに極限まで集中していた。
陽菜は、その間片時も俺のそばを離れなかった。彼女は濃いコーヒーを淹れ、俺の口元まで運び、俺が筆を置くほんのわずかな合間にサンドイッチを小さくちぎって食べさせてくれた。アトリエに響く音楽が途切れれば、レコードを裏返し、また新たな音楽を流してくれた。
俺が自分の内なる音に集中できるよう、彼女は、世界の全てのノイズから俺を守ってくれていた。
ピッ……、ピッ……。
頭の中の電子音は、まだ聞こえていた。だが、もはや俺の演奏を止めることはできなかった。それはただ背景で鳴り続ける、締め切りを告げる時計の秒針の音になっていた。
キャンバスの上の色の星座は、凄まじい速度でその版図を広げていく。
親父が描こうとした、宇宙の創生。
俺は、それをただなぞっているだけなのかもしれない。だが、それでもよかった。この巨大な音楽を、この手で世界に響かせることができるなら。
そして。
夜が、再び明けた。
東の空が白み始め、アトリエの高い窓から、朝の青白い光が差し込んでくる。
楽譜の、最後の一節。
俺は、最後の力を振り絞った。
最後の音。それは、始まりの音と同じ、Cの音。全てが始まりへと回帰していく、深く穏やかな赤。
俺は、その色をパレットの上で作り出した。
そして、楽譜が示す最後の座標に。
全ての色の銀河の、終着点に。
そっと、その赤い点を置いた。
全ての音を奏で終えた。
その瞬間。
ぴたり、と。
あれほど俺の頭の中で、執拗に、暴力的に、鳴り響いていたあの冷たい電子音が、完全に消えた。
後にはただ、どこまでも透明な、完全な静寂だけが残された。
俺は息を呑んで、目の前の完成した絵を見つめた。
それは、もはやただの絵画ではなかった。
黒い闇の中に、無数の色とりどりの星々が、螺旋を描きながら生まれ、消えていく。生命の、誕生と死。宇宙の、始まりと終わり。その永遠のサイクルが、一枚のキャンバスの上に、完璧な調和をもって描き出されていた。
俺は、知らず、涙を流していた。
親父。
あんたが最後に見たかった世界は、これだったのか。
あんたが最後に奏でたかった音楽は、これだったのか。
俺はやったよ。
あんたの曲を、最後まで演奏しきったよ。
全身から力が抜けていく。意識が遠のいていく。極度の集中と疲労、そして、達成感が、俺の身体を限界の向こう側へと押しやった。
グラリ、と、俺の身体が前に傾く。
「カイト!」
陽菜が、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
意識を失う寸前、床に叩きつけられるはずだった俺の身体は、温かい何かに強く支えられた。陽菜が全体重をかけて、俺の倒れる身体を受け止めてくれていたのだ。
彼女の懸命な呼吸の音と、俺の肩を掴む指の強い力を最後に感じながら、俺は完全に意識を手放した。
陽菜は、自分の肩にぐったりと寄りかかるカイトの重みに歯を食いしばって耐えた。華奢な彼女の身体が震えている。それでも彼女は決して彼を離さなかった。
ゆっくりと慎重にカイトの身体を床に横たえると、彼女は彼の頬に触れその穏やかな寝息を確認して一度だけ固く目を閉じた。
そして、ついと顔を上げる。
彼女は意識を失った幼馴染の顔と、その向こうに佇む完成された沈黙の宇宙が描かれたキャンバスを、交互に見つめた。
その瞳に、涙はなかった。
そこに宿っていたのは極度の疲労の色と、そしてこれから始まるであろうあまりにも過酷な現実を一人でも戦い抜いてみせるという、静かで燃えるような決意の光だった。
まず為すべきことは、目の前の命を守ることだった。
陽菜は、カイトの身体をなんとか引きずるようにしてソファまで運ぶと、アトリエの隅にあったブランケットを彼の身体に優しくかけた。彼の額に浮かんだ汗を自分のハンカチで拭い、その手首にそっと指を当てる。規則正しくしかしひどくゆっくりとした脈拍。今はただ深く深く眠っている。まるで生まれて初めて本当の眠りを得たかのように。
カイトが安全であることを確認すると、陽菜は次なる敵へと視線を移した。
テーブルの上に置かれた法律事務所からの冷たい通告書。そして壁に掛けられた時計。
時刻は朝の七時を少し回ったところだった。
期日は本日の午後五時。
残された時間は、もう十時間もない。
このまま時が来れば、高林とあの村越という男が、法的な権力という絶対に覆せない力を持ってここへやってくる。そして、このカイトの魂の結晶は「冒涜的な落書き」として乱暴に運び出され、二度と日の目を見ることはないだろう。
それだけは絶対にさせない。
だがどうすればいい?弁護士に相談する時間もお金もない。カイトの母親に連絡したところで、事態が好転するとは思えなかった。
陽菜はアトリエの中をゆっくりと歩き回った。そして完成したあの絵の前に再び立った。
黒いキャンバスの上に広がる、色の銀河と光を喰らう沈黙の闇。
陽菜には。この絵の芸術的な価値は分からない。だがこれだけは確信を持って言えた。
この絵は生きている。
この絵は本物だ。
高林や村越のような、既成概念に凝り固まった人間には、きっとこの絵の本当の価値は永遠に理解できないだろう。
ならば。
別の人間を呼ぶしかない。
違う価値観を持つ違う目の人間を。この常軌を逸した物語を面白がれる、あるいはその奥にある真実を見抜ける人間を。
陽菜の頭の中に一つの無謀な計画がひらめいた。
それはほとんど博打に近い狂気の沙汰だった。だがもうそれしか残された道はなかった。
彼女は、カイトのジャケットのポケットから彼のスマートフォンを取り出した。そしてインターネットの検索窓にいくつかのキーワードを打ち込んでいった。
『月城宗一郎』『美術評論』『異端』『アンチ』。
表示されたおびただしい数の記事の中から、彼女は食い入るように一つまた一つと記事を読み漁っていった。月城宗一郎を手放しで絶賛するだけの提灯記事はいらない。高林や村越と同じ側の人間だ。
彼女が探していたのは、もっと批評眼が高く、それでいてどこかはみ出し者の匂いのするジャーナリスト。
そして数十分後。彼女は、一人の人物にたどり着いた。
フリーのアートジャーナリスト。その男は、自身のブログで月城宗一郎の晩年の作品を「神の領域に達したが故の美しき停滞」と評し美術界から激しい批判を浴びていた。しかしその文章には、他の誰にもない深い洞察と、月城宗一郎という芸術家に対する、本物の愛情が感じられた。
この人しかいない。
陽菜は、ブログの片隅にあった連絡先のメールアドレスをスマートフォンの画面に表示させた。
彼女は震える指でメールを打ち始めた。
件名は『月城宗一郎、最後の神託』。
そして本文にはこう記した。
『本日、月城宗一郎の絶筆が、彼の息子月城カイトの手によって完成されました。それは絵画の歴史を覆す事件です。しかし本日午後五時、この作品は法的な権力によって闇に葬られようとしています。もしあなたに、ジャーナリストとしての一片の矜持が残っているのなら。この世紀のスクープを、その目で確かめに来てください。場所は月城宗一郎のアトリエ。時間はありません』
彼女は、そのメールを同じような異端とされる数人の美術ブロガーやウェブマガジンの編集部にも送った。
返事が来る保証はない。
誰も来ないかもしれない。
それでも彼女は、祈るような気持ちで送信ボタンを押した。
全てをやり終えた後、陽菜はカイトの眠るソファの横にそっと座った。
彼女は、カイトの穏やかな寝顔を見つめた。そして、その手を優しく握りしめた。
壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きくアトリエに響いている。
午前九時。
運命の午後五時まで、あと八時間。
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