2-9. 音楽は、聴こえますか

 時間は、子供のころの一日のようにゆっくりと過ぎていった。

 陽菜はスマートフォンを何度も確認したが、誰からも返信はなかった。彼女はアトリエの中を意味もなく歩き回り、冷たくなったコーヒーを何度も淹れ直し、そしてただひたすらに待った。

 窓から差し込む光が角度を変え、アトリエの中の影を少しずつ動かしていく。完成した絵は光の加減によってその表情を刻一刻と変えていた。朝の光の中では希望に満ちた創生の絵に見えたものが、昼の強い光の下では激しくせめぎ合う混沌の戦場のように見えた。

 カイトは穏やかに眠り続けている。時折その眉間に深い皺が刻まれるが、それもすぐに消えていく。彼は今頃どんな夢を見ているのだろう。音が戻ってきた、調和に満ちた世界だろうか。

 時計の針が午後三時を指した、その時だった。

 アトリエの扉が、控えめに二度ノックされた。

 陽菜の心臓が、大きく跳ねた。

 来た。誰かが。

 あるいは、高林が時間を早めて来たのかもしれない。

 陽菜は唾を飲み込むと、震える手でゆっくりと扉を開けた。

 そこに立っていたのは、くたびれたツイードのジャケットを着た、四十代ほどの痩せた男だった。無精髭を生やし、その目には深い疲労と、それ以上に強い人を試すような皮肉の色が浮かんでいた。

 「……迫と、言いますが」

 男は名乗った。月城宗一郎を「美しき停滞」と評した、あのフリージャーナリストだった。

 「あなたが、あの、やけに芝居がかったメールを?」

 彼の声は、ひどく気だるそうだった。

 「はい、私です。お越しいただき、ありがとうございます」

 「礼には及ばんよ。ただの野次馬根性だ。で、その『事件』とやらはどこにある?」

 迫はアトリエの中を見回した。ソファで眠るカイトを一瞥し、そして陽菜の背後にそびえ立つ巨大なキャンバスに、その視線を止めた。

 陽菜は何も言わずに、ただ道を開けた。

 迫は、ゆっくりとキャンバスに近づいていく。彼は眉間に深い皺を寄せ、怪訝な顔でその絵を眺めた。

 彼は、何も言わなかった。

 村越のように罵倒することもしなかった。ただ食い入るように、その絵の細部を、色の点を、沈黙の黒を、何かに取り憑かれたかのように見つめ続けていた。

 その、長い、長い沈黙。

 陽菜が固唾を飲んでそれを見守っていると、再び扉がノックされた。

 今度は、若いウェブマガジンの記者を名乗る男女二人組だった。

 「あの、メールを拝見しまして……」

 彼らもまた、アトリエの中の異様な光景とキャンバスの前に佇む迫の姿を見て、言葉を失っている。

 一人、また一人と、陽菜の呼びかけに応えた者たちが集まり始めた。五、六人の、主流からは外れたが、それ故に、本物を見抜く目を持つかもしれない異端者たち。

 彼らは皆何も言わず、ただ巨大なキャンバスを遠巻きに、あるいは、すぐ間近で、それぞれのやり方で検分している。

 アトリエは、奇妙な熱気に、包まれ始めていた。

 陽菜は、その光景を、震える思いで見つめた。

 壁の時計が、午後四時半を、指していた。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、本当の、戦いが始まる。

 

 午後五時、その時報が、誰かのスマートフォンのアラームとして、静かなアトリエに鳴り響いた。

 それを合図とするかのように、アトリエの扉が、今度は、何の遠慮もなく、堂々と開かれた。

 高林だった。彼の後ろには、先日と同じく、ギャラリーオーナーの村越が、苦々しい顔で立っている。さらにその後ろには、作業着姿の男たちが四人、無言で控えていた。作品を運び出すための、実働部隊だろう。

 高林は、アトリエの中に集まった見知らぬジャーナリストたちの顔ぶれを見て、一瞬その眉をひそめた。

 「……これは、どういうことですかな」

 彼の、計算が狂ったとでも言いたげな低い声が響く。

 「何かの、内覧会かね? だが、残念ながら、もう時間切れだ」

 高林は、陽菜に向かって、冷たく言い放った。

 「通知した通り、このアトリエの全ての作品の管理権は、遺言執行者であるこの私にある。速やかに明け渡していただこう」

 彼は、作業員の男たちに顎で合図を送った。男たちが、壁の絵画に手をかけようとする。

 「待ちたまえ」

 それを制したのは、静かだが、有無を言わせぬ、鋭い声だった。

 迫が、いつの間にか、キャンバスの前から動いて、高林たちの前に立ちはだかっていた。

 「君は、誰かね」

 高林が不快そうに問う。

 「ただの、通りすがりのジャーナリストだ」

 迫はそう言うと、村越の方にちらりと視線をやった。

 「村越先生。あなたは、以前この作品を『冒涜だ』と、おっしゃったそうですね。その評価、今もお変わりないですかな?」

 「無論だ」

 村越は、吐き捨てるように言った。

 「こんなものは、絵画ではない。ただの精神病理の記録だ」

 「なるほど。精神病理、ですか」

 迫は、面白そうに、口の端を上げた。

 「確かにそうかもしれない。だがあらゆる偉大な芸術は、多かれ少なかれ精神の病から生まれるものだ。そして、この絵はただの記録ではない。これはある一つの精神が、完全な崩壊の淵から、いかにして新たな宇宙を再構築したかという、壮絶なドキュメンタリーだ」

 迫は、ゆっくりとキャンバスを振り返った。

 「この無数の色の点は、喜びや悲しみといった、ありふれた感情の表出ではない。これは、音だ。光だ。数学だ。そして、沈黙だ。月城宗一郎が、その最晩年に追い求めていた、全ての答えが、ここにある。……いや、その答えを、見つけ出そうとした、格闘の全記録が」

 アトリエは、静まり返っていた。

 集まったジャーナリストたちが、息を呑んで迫の言葉に聞き入っている。

 高林と村越の顔が、怒りと屈辱に歪んでいく。

 その張り詰めた空気の中で。

 ソファの上で、カイトの身体がぴくりと動いた。

 うめき声と共に、ゆっくりとそのまぶたが開かれていく。

 「……カイト!」

 陽菜が、彼のそばに駆け寄った。

 カイトはひどく混乱した様子で、周囲を見回した。眠る前とは全く違う、人の気配。目の前に立つ高林と村越。そして、自分の絵の前に仁王立ちになって、何かを語っている見知らぬ男。

 彼の目はゆっくりと、完成した自分の絵に向けられた。

 もうそこには、何の苦痛も、葛藤もなかった。

 ただ、静かで、完璧な調和があるだけ。

 カイトは陽菜に支えられながら、ゆっくりと身体を起こした。

 アトリエにいる全ての人間が、彼に注目していた。

 この、奇跡かあるいは狂気の産物か分からない作品を生み出した張本人が、ついに目覚めたのだ。

 カイトは、誰に言うでもなく、ただ目の前の自分の宇宙に向かって静かに、はっきりとこう呟いた。

 「……音楽は、聴こえますか」

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