2-7. ふざけないで

 束の間の休息の後、俺は、再び、キャンバスの前に立った。

 もう、恐怖はない。俺の手には、音色と、沈黙、その両方を奏でるための二つの武器がある。

 俺は再び、あの、瞑想的で、途方もない作業に没頭していった。

 楽譜を読み解き、音の色を作り、キャンバスに置いていく。そして休符が現れれば、今度は迷うことなく、あの光を喰らう黒を、そっと置いていく。

 色とりどりの点の連なりが、時折、深い黒によって分断され、また新たな色の連なりが、始まっていく。

 それは、音楽そのものだった。

 鳴り響く音と、緊張をはらんだ静寂。その繰り返しが、この黒いキャンバスの上に、一つの巨大な宇宙を、創造していった。

 俺は、描いていた。

 いや、演奏していたのだ。

 親父が、最後に遺そうとした、鎮魂歌を。


 その演奏が、どれくらいの時間続いたのか。

 アトリエの高い窓から、朝の白い光が差し込んでいることに気づいた時、俺は、自分が一睡もせずに夜を明かしたことを知った。

 キャンバスのおよそ三分の一ほどが、色と、沈黙の点で、埋め尽くされている。それは、客観的に見れば、意味の分からないただの模様の羅列だったかもしれない。だが俺は、そこから、荘厳なひどく悲しい音楽が鳴り響いているのを、確かに聴いた。

 「カイト、すごい……」

 ソファでうたた寝をしていた陽菜が、いつの間にか目を覚まし、俺の背後で息を呑んでいた。

 俺は、満足感と、心地よい疲労感に包まれながら筆を置いた。

 だが、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。

 陽菜が、テーブルの上に置かれたままだった、あの法律事務所からの封筒に、目をやったのだ。彼女の顔から、さっと、血の気が引いていく。

 「……カイト。この手紙……」

 そうだ。忘れていた。

 俺たちの戦いは、このアトリエの中だけで、完結しているわけではない。

 高林という、現実の、法的な脅威が、すぐそこまで迫っている。

 「期日は……」

 俺が言うと、陽菜は、震える声で答えた。

 「明日の、午後五時、になってる……」

 あと、一日半しかない。

 この、巨大なキャンバスを完成させるには、あまりにも、あまりにも、短い時間。

 俺がその事実に愕然としていると、アトリエの扉が、今度はノックもなしに、乱暴に開けられた。

 高林だった。

 だが、一人ではなかった。彼の後ろには、いかにも高そうなスーツを着た初老の男が、値踏みするような目で、アトリエの中を見回していた。

 「……なんのつもりですか」

 俺は、イーゼルを隠すようにして、高林の前に立ちはだかった。

 「なんの、とは心外だな。紹介しよう。こちらは、現代美術の権威、村越ギャラリーのオーナーだ。お父上の作品の、正当な価値を査定していただくために、お越しいただいた」

 高林は、せせら笑うように言った。

 「そしてこの私が、月城宗一郎の遺志を継ぐにふさわしい人間であることを、証明していただく、証人でもある」

 村越と呼ばれた男は、俺には目もくれず、壁の作品群を眺めていたが、やがて俺が隠しているイーゼルに気づき、興味深そうに眉を上げた。

 「ほう。これが、噂の、絶筆ですかな」

 彼は、高林の制止も聞かず、俺の横をすり抜けて、キャンバスを覗き込んだ。

 そして、数秒後。

 彼は、心底、軽蔑しきった、冷たい声で、言った。

 「……これは、何だね?」

 彼の視線は、俺が一晩かけて、魂を込めて描いた、色の星座に向けられていた。

 「月城宗一郎の、あの、完璧なマチエールの上に、こんな、素人の落書きのようなものを……。正気かね、君は。これは、冒涜だ。芸術に対する、冒涜そのものだ!」

 「あなたには、分からないでしょう」

 俺は、静かに、しかし、はっきりと言い返した。

 「あなたには、聴こえない。この絵が、奏でている音楽は」

 「音楽……? 何を、馬鹿なことを」

 村越は、呆れて、言葉も出ない、という顔だった。

 高林は、そんな俺たちのやり取りを満足そうに眺めていたが、やがて勝ち誇ったように、俺に最後通告を突きつけた。

 「聞いたかね、カイトくん。これが、世間の、正当な評価だ。君のやっていることは、狂人の、自己満足に過ぎん。……期日は、明日だ。それまでに、そのゴミを片付けて、出ていくことだ。さもなくば、法的な手続きに従い、君をここから排除する」

 そう言って、二人は、アトリエから出ていった。

 俺は、一人、その場に立ち尽くしていた。

 たった今、生まれたばかりの、俺の音楽。俺の宇宙。

 それは、現実というあまりに無慈悲な壁の前に、ただ、無力だった。

 村越と名乗った、あの男の、冷たい軽蔑しきった視線が、網膜に焼き付いて離れない。『狂人の、自己満足』。高林の言葉が、頭の中で、ぐわんぐわんと反響する。

 そうなのかもしれない。

 俺が聴いているこの音も、俺が見ているこの色の星座も、全ては俺の脳が生み出した、都合のいい幻覚なのかもしれない。親父の狂気を、俺がなぞっているだけなのかもしれない。父の才能を継ぐことができなかった俺が、せめてその狂気だけでも受け継ぎたいと、無意識に願ってしまった、哀れな道化。

 その考えが、一度、頭をもたげた瞬間、それは毒のように、俺の全身へと回り始めた。

 ピッ……、ピッ……、ピッ……。

 鳴りを潜めていたはずのあの電子音が、またゆっくりと、確実に、その存在感を増してくる。今度は、それは高林や村越の声と、重なって聞こえるようだった。

 狂人だ、と、音が言う。

 無価値だ、と、音が言う。

 諦めろ、と、音が言う。

 俺は、思わず、耳を塞いだ。だが音は、内側から響いてくる。俺自身の、内側から。

 足元の力が、抜けていく。俺はその場に、へなへなと座り込みそうになった。

 その、瞬間だった。

 「――ふざけないで」

 静かだが、鋼のような強さを秘めた声が、アトリエに響いた。

 陽菜だった。

 彼女は俺の前に立つと、俺の肩を、強く掴んだ。

 「顔を上げて、カイト」

 俺がうつむいたまま、動けないでいると、彼女はほとんど力ずくで、俺の顔を上げさせた。

 彼女の瞳は、燃えていた。俺が、今まで見たこともないような、激しい怒りの炎で。

 「あの人たちが、何なの。美術の権威? ギャラリーのオーナー? だから、何だっていうのよ。あの人たちに、カイトの見てる世界が、カイトの聴いてる音が、分かるはずないじゃない!」

 彼女は、一息に、まくし立てた。

 「私は専門家じゃないから難しいことは分からない。でも私には見えるよ。この絵がただの落書きなんかじゃないってことくらい。カイトが命を削って何かとんでもないものをこの世界に生み出そうとしてるってことくらい分かるよ!」

 彼女の言葉は理屈ではなかった。だが、その魂からの叫びは、どんな論理的な慰めよりも、強く、深く、俺の心に突き刺さった。

 「あの人たちの評価なんて、どうでもいい。世間なんて、どうでもいい。あんたが、これを本物だって信じなくて、どうするのよ!」

 そうだ。

 俺は、何を迷っていたんだ。

 俺は、もう一人じゃなかった。

 たった一人でも、この音楽を聴いてくれる、オーディエンスがいる。

 それだけで、十分じゃないか。

 「……陽菜」

 俺は、立ち上がった。

 「ありがとう。……俺は、馬鹿だった」

 俺は、再び、キャンバスに向き直った。

 「残り、あと、一日と、少し。……間に合うか、分からない。でも、やるしかない」

 「うん」

 陽菜は、力強く、頷いた。

 そこから、俺たちの最後の戦いが始まった。

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