2-6. 沈黙の色
頭の中でけたたましく鳴り響いていた警報音は、俺が完全に沈黙したことを確認すると満足したかのように、またあのゆっくりとした、無慈悲なリズムへと戻っていった。
ピッ……、ピッ……。
それは、俺の思考が完全に停止してしまったことを、あざ笑っているかのようだった。
「カイト、しっかりして。こっちにおいで」
陽菜は、ほとんど引きずるようにして、俺をソファまで運んだ。俺は、糸の切れた操り人形のように、彼女のなすがままになっていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
彼女は、まるで小さな子供をあやすように、俺の背中をさすり続けてくれた。その温かさだけが、この冷たいアトリエの中で、唯一の現実の感触だった。
しばらくして頭痛が少しだけ和らいだ頃、俺は、ぽつり、ぽつりと、陽菜に説明を試みた。
「……親父の日記によれば、色は音なんだ。特定の色は、特定の音階に対応している。俺は、その法則に従って、楽譜の音符を、色の点としてキャンバスに置いていた」
陽菜は、黙って頷いている。
「でも、楽譜には、休符がある。音が、完全に、休止する部分だ。……だが、どうやって? どうやって、沈黙を、描けばいい? このキャンバスは、最初から、黒い。沈黙そのものだ。その上に、さらに沈黙を描き足すことなんて、できやしない。それは、無に、無を重ねるようなものだ。矛盾している……」
俺は、そこまで言うと、力尽きたように言葉を切った。これが、俺の知性の限界だった。親父が、どうやってこの矛盾を乗り越えようとしていたのか、皆目見当もつかない。
陽菜は、俺の話を聞き終えると、静かに立ち上がった。そして、もう一度イーゼルの前に立った。彼女は、そこに生まれた色の銀河と、その先にある手つかずの黒い闇を、じっと見つめていた。
俺は、彼女が何て言うのか、少しだけ怖かった。「そんなの、分かるわけないじゃない」と、匙を投げられることを、心のどこかで恐れていた。
やがて、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「ねえ、カイト」
その声は、不思議なほど、穏やかだった。
「音楽のコンサートで、曲と曲の間とか、すごく静かになる瞬間って、あるじゃない?」
「……ああ」
「あの時ってさ、本当に『無』なのかな。私は、そうは思わないんだ。シーン、と静まり返ったホールの中で、観客みんなの息遣いや、空気そのものが震えているような、そんな感じがしない?音が無い、っていうことと、何も無い、っていうことは、きっと違うんだよ」
彼女は、再びキャンバスに視線を戻した。
「このキャンバスの黒だって、全部、同じ黒なのかな」
「え……?」
「背景になっている、この黒い絵の具の色と、楽譜が示している『沈黙』は、もしかしたら違う黒なんじゃないかなって。もっと……深くて、何もかもを吸い込んでしまうような、特別な黒。沈黙の、色。そういうのが、あるんじゃないかな」
沈黙の、色。
特別な、黒。
その言葉は、俺の固く閉ざされていた思考の扉を、いとも容易くこじ開けていった。
そうだ。なぜ気づかなかったんだ。
親父は、ただの市販の黒い絵の具を、背景として使っていた。だが、彼が表現しようとしていた「沈黙」は、そんな既製品の黒で表現できるはずがない。
それは、彼自身が、作り出すしかない、究極の黒。
俺は、ソファから、勢いよく立ち上がった。
そして、アトリエの隅にある、親父が顔料を調合していた作業台へと向かった。そこには、世界中から集められた様々な鉱石や植物の粉末が、無数の瓶に詰められていた。
俺はその中から、一つの、ラベルの貼られていない、黒い木の箱を手に取った。ずしりと重い。これだけが、他のどの顔料とも別に、厳重に保管されていた。
箱を開ける。
中には、息を呑むほどに漆黒の、砂のような粉末が入っていた。
光を、全く反射しない。それは、色というより、物質化された「闇」そのものだった。
箱の蓋の裏に、親父の文字で、走り書きがあった。
『骨炭。獣骨。光を喰らう、沈黙の顔料。調合比、油一〇に対し、一』
これだ。
これが、親父が見つけた、沈黙の色。
俺は、その黒い粉末を、パレットの上に取り、日記に記された通りの比率で、油と混ぜ合わせていった。
出来上がったのは、これまでの黒とは、全く違う、異質な黒だった。それは、周りの光を、貪欲に吸い込み、その輪郭すら曖昧に見える。まるで、空間に小さなブラックホールが生まれたかのようだった。
俺は、その「沈黙の黒」を、新しい清浄な絵筆の先に、少量だけつけた。
イーゼルの前に、戻る。
頭の中で鳴り響いていた電子音は、いつの間にか、その勢いを失っていた。俺の、新たな発見に対する畏怖からか。
俺は、楽譜が「全休符」を示している、その空間に。
色の銀河が、途切れた、その先に。
そっと、その、光を喰らう黒を置いた。
キャンバスに、さらに深い小さな闇の点が、生まれた。
それは、確かに沈黙の音を奏でていた。
俺は、顔を上げて、陽菜を見た。
彼女は、泣いていた。
そして、俺が今まで見た中で、最高の笑顔で、微笑んでいた。
俺も、つられて笑った。理由は分からない。ただ、このどうしようもない状況の中で、たった一人、俺の狂気を、俺の演奏を、理解し、共に戦ってくれる存在がいる。その事実が、凍てついた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
「……陽菜」
俺は、かすれた声で言った。
「ありがとう。お前がいなかったら、俺は、とっくに、あの黒に飲み込まれていた」
「……ばか。私こそ、ありがとうだよ」
陽菜は、涙を拭いながら、言った。
「カイトが、諦めないでくれて。見てて、すごく怖かったけど……でも、すごく綺麗だった」
彼女は、俺がキャンバスに置いた、あの、光を吸い込む黒の点を指差した。
「あの黒、本当に音がしないんだね」
その言葉に、俺たちはまた笑い合った。
アトリエには、穏やかな時間が流れていた。あれほど俺を苦しめていた電子音は、完全に鳴りを潜めている。まるで、俺が「沈黙」の表現方法を見つけたことに、畏怖して、隠れてしまったかのようだった。
俺たちは、陽菜が買ってきてくれた、すっかり冷たくなった弁当を、半分ずつ分け合って食べた。それは、今まで食べたどんなご馳走よりも、美味しく感じられた。
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