2-5. 全休符
俺たちは来た時と同じ道を通り、アトリエへと引き返していた。だが、世界は全く違う貌を見せていた。陽はとっぷりと暮れ、街は無数の人工の光で満たされている。車のヘッドライト、街灯、コンビニの看板、マンションの窓から漏れる生活の灯り。
さっきまでの俺なら、それらが、ただばらばらに存在する意味のない光の点滅にしか見えなかっただろう。
だが今の俺には、その全てが、巨大な楽譜の上に配置された音符のように見えていた。それぞれが、違う音程と違うリズムで、この夜という名の音楽をか細く、しかし懸命に奏でている。
世界は、音で満ち溢れていたのだ。
親父が聴こえなくなったのは、このありふれた音ではない。この全ての音を、一つの調和として束ねている、根源的な、宇宙の響きそのものだったのだろう。そして、俺の頭の中にだけ響くあの冷たい電子音は、その調和を否定し、全てを意味のない単調な信号へと還元しようとする力。
アトリエの扉の前に立った時、俺は、不思議と落ち着いていた。
ここが、俺の戦場だ。
俺は、扉を開けた。
絵の具と油の匂いが、俺を迎える。だが、以前感じたような、息苦しさや、牢獄のような圧迫感はなかった。むしろここは、静まり返った巨大な楽器の内部のようだった。壁の絵画たちは、沈黙したオーディエンスのように、俺の登場を待っている。
そして、中央に佇む、黒いキャンバス。
それはもはや、虚無の闇ではなかった。
これから、壮大な交響曲が演奏されるのを待つ、静謐な無音の舞台そのものだった。
「陽菜」
俺は、振り返って言った。
「これから、俺は、親父の遺した曲を、このキャンバスの上で演奏する。それは、時間がかかる、長い儀式になると思う。だから……」
「分かってる」
陽菜は、俺の言葉を遮るように、強く頷いた。
「私は、指揮者の邪魔はしないよ。でも指揮者が倒れたら、介抱する役目はやらせてもらうからね」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。その笑顔に俺はどれだけ救われただろう。
俺は、まず儀式の準備を始めた。
床に散らばっていた書物を、陽菜と一緒に、一冊一冊丁寧に本棚に戻していく。散乱していた絵の具のチューブを片付け、汚れた床を雑巾で拭き清める。これから行われる、神聖な演奏の舞台を、整えるために。
空間が浄められていくにつれて、俺の思考もまた、研ぎ澄まされていくのが分かった。
次に、親父の日記とあの楽譜の描かれたトレーシングペーパーを、イーゼルの隣に立てた別の小さなキャンバスに、ピンで丁寧に留めた。これが、俺の指揮台であり羅針盤だ。
俺は、その楽譜を、改めてじっと見つめた。
幾何学模様と、音符の羅列。
それだけでは、まだ足りない。この音をどうやって「色」に変換するのか。
答えは、日記の中にあった。
『色彩は、それ自体が、固有の周波数を持つ、音の一種だ』。親父は、そう書き残していた。『カンディンスキーは正しかった。だが、彼はその先にある、数学的な法則性を見つけられなかった。Cの音は、赤。だが、ただの赤ではない。波長700ナノメートルの光。Eの音は、青。450ナノメートルの、魂を震わせる青……』
日記には、音階とそれに対応する光の波長、そしてそれを再現するための顔料の具体的な調合比率が、執念深く記されていた。
俺はその記述に従い、パレットの上で絵の具を混ぜ始めた。
それは、もはや、感性の作業ではなかった。
科学者の実験のように、あるいは錬金術師の秘薬の調合のように。一滴、一滴、慎重に色を重ね、親父が追い求めた「音の色」を作り出していく。
全ての準備が、整った。
目の前には、静まり返った黒い舞台。
指揮台には、解読を待つ楽譜。
そして俺のパレットには、七色の音階が、今か今かとその音を奏でるのを待っている。
俺は、一本の細い絵筆を手に取った。
深く、息を吸う。
そして、吐き出すと同時に、意識を楽譜の一点に集中させた。
始まりの音。Cの音。全ての調和の、基本となる、深く力強い赤。
ピッ……、ピッ……、ピッ……。
案の定、あの音が、頭の中に響き始めた。俺の集中を、掻き乱そうとする、冷たいノイズ。
だが、俺は、もううろたえない。
俺はそのノイズを、無視するのではない。意識の隅に追いやり、BGMのように聞き流しながら、ただ楽譜だけを見つめた。親父が記した、始まりの音符だけを。
震えるな、俺の腕。
迷うな、俺の指先。
俺は、パレットから、作り上げたばかりの血のように深い赤を、筆先に少量だけ含ませた。
そして。
黒いキャンバスの、その中心に。
そっと、絵筆を、置いた。
描く、のではない。線を引くのでもない。ただ、置く。
鍵盤を、叩くように。
その瞬間、キャンバスに、小さな、赤い点が、灯った。
まるで、闇の中に生まれた、最初の星のように。
不思議なことが、起きた。
その赤い点が生まれた瞬間、あれほど執拗に鳴り響いていた電子音が、ほんの一瞬だけ、ぴたりと、止んだのだ。
ほんの、コンマ数秒の、完全な静寂。
だが、俺にはそれが、永遠のように感じられた。
やった。
俺は、やったんだ。
俺は、親父の遺した交響曲の第一音を、正しくこの世界に響かせることができたのだ。
歓喜が、身体の芯から湧き上がってくる。
俺は顔を上げた。
これから始まる長い、長い演奏を前に、俺は確かに笑っていた。
歓喜が、身体の芯から、湧き上がってくる。
俺は、顔を上げた。
これから始まる、長い、長い演奏を前に、俺は、確かに笑っていた。
再び楽譜に目を落とす。
二音目。それは、Eの音。日記によれば、波長450ナノメートルの青。魂を震わせる、と親父が書き記した色だ。
俺はパレットの上で、ウルトラマリンとフタロシアニンブルーを、慎重に、本当に微量の白を加えながら練り上げていく。親父が追い求めた、夜の始まりの空のような、深く、澄み切った青。
そして、再びキャンバスに向かう。
楽譜が示す、次の座標。最初の赤い点の、少し右上。
息を止め、意識を集中させる。
ピッ……、ピッ……。
案の定、思考の隙間を縫うように、あの音が戻ってくる。だが、俺はもうそれに動揺しなかった。それは、ただの背景音だ。俺の演奏を妨害しようとする、空虚なノイズに過ぎない。
俺は、その音をやり過ごしながら、寸分違わぬ座標に、そっと青い点を置いた。
再び、電子音がほんの一瞬途切れる。
俺は、その作業を何度も何度も繰り返した。
楽譜を読み解き、親父の残した配合表に従って「音の色」を作り、キャンバスの正しい位置に、その色を置いていく。
それは絵を描くというより、精密な機械を組み立てるか、あるいは経文を写経する僧侶のような、どこまでもストイックで瞑想的な行為だった。
時間の感覚は、完全に失われていた。陽菜が、そっと口元に水や小さくちぎったパンを運んでくれるが、俺はキャンバスから目を離すことなく、ただ機械的にそれを飲み下した。味がしなかった。俺の五感の全ては、キャンバスの上に生まれていく、色の星座に注がれていた。
陽菜は、何も言わずにその全てを見ていた。
彼女は俺の背後のソファに座り、時々心配そうに俺の名を呼びかける以外は、ただ静かにそこにいた。彼女自身の時間もまた、俺のこの狂気じみた儀式によって、止められてしまっているかのようだった。
彼女の目には、俺の姿がどう映っていたのだろうか。
トランス状態のように、一心不乱に巨大な黒いキャンバスへ、意味の分からない色の点を打ち続ける男。それは、希望の光景だったのか。それとも、狂気がより深い段階へ移行しただけの、絶望の光景だったのか。
俺には、もう分からなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。窓の外はとっくに闇に沈んでいる。アトリエの中は、キャンバスを照らすスポットライトの光だけが、唯一の光源だった。
黒いキャンバスの上には、今や数十個の色の点が、美しい曲線を描いて並んでいた。赤、青、黄、緑。それは、まるで、誰も見たことのない、銀河のようだった。一つ一つの色が、互いに共鳴し合い、沈黙の音楽を奏でている。
俺は、ほとんど忘我の境地で、作業を続けていた。電子音は、鳴っては消え、消えては鳴り、もはや俺の集中を乱す力を持っていなかった。
だが、その時は、唐突に訪れた。
楽譜を追っていた俺の目が、ある一点で、ぴたりと、止まった。
それは、音符ではなかった。
楽譜の、フレーズとフレーズの間に置かれた、一つの記号。
全休符。
音楽における、完全な沈黙を示す記号。
俺の指が、止まった。
どうすればいい?
沈黙を、どうやって、このキャンバスの上に、描けばいいというんだ。
黒いキャンバスは、それ自体が、すでに沈黙を体現している。その上に、さらに沈黙を重ねるなど、できるはずがない。
色を置けば、それは音になってしまう。
かといって何もしなければ、この休符を無視することになる。それでは、演奏にならない。
俺の思考が、袋小路に迷い込んだその瞬間。
それまでかろうじて抑え込んできたあの電子音が、堰を切ったように、勢いを増して俺の頭の中に溢れ出した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――!
それは、もはや、単調なリズムではなかった。けたたましく鳴り響く、警報音。俺の思考の、完全な停止を促す、エラー信号。
「ぐ……っ、あ……!」
激しい頭痛が、再び俺を襲った。パレットと絵筆が、床に落ち、けたたましい音を立てる。
俺は、頭を抱えて、その場にうずくまった。
「カイト!?」
陽菜が、驚いて駆け寄ってくる。
「どうしたの、急に! また、あの発作なの?」
「違う……」
俺は、うめくように言った。
「楽譜が……。描けないんだ……。沈黙が、そこにある……。沈黙は、描けない……」
意味の分からない俺の言葉に、陽菜はただ戸惑うばかりだった。
俺が初めて手にした、親父の遺した、たった一つの武器。
それはこんなにも早く、俺の前に、あまりにも巨大で、あまりにも哲学的な新たな壁として立ちはだかったのだ。
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