第14話 蝶と消えたティーカップ



月明かりが薄雲に隠れた夜、茶房の扉が音もなく開いた。


いや、正確には開いていない。扉は閉じたままなのに、誰かが中にいる気配がした。


「……いらっしゃいませ」


巫(かなめ)が静かに声をかけると、空気が揺らいだ。


「見えるの?」


姿なき声が驚きを含んでいた。カウンターの椅子が、ひとりでに動く。


「ええ。月に選ばれし者は、見えないものも見えることがあります」


すると、薄っすらと輪郭が現れた。黒い衣装に身を包んだ女性。顔の下半分を覆う布から、警戒心に満ちた瞳だけが覗いている。


「シア……盗賊のシアよ」


「お茶をお飲みになりますか」


シアは驚いたように首を傾げた。


「盗賊だと名乗った相手に、お茶を?」


「ここは月読茶房。どなたでも、お茶を飲みに来られる場所です」


シアの姿が少しはっきりとした。緊張が解けたからだろうか。


「私の姿が見える人は、十年ぶりよ」


彼女はゆっくりと顔を覆う布を外した。思いのほか若い顔立ちで、蝶の刺青が頬に彫られている。


「その刺青は?」


「呪いよ。姿を消す力と引き換えに、誰からも認識されなくなった」


クウが厨房から恐る恐る顔を出した。


「あ、あの……お客さん、いるんですよね?」


「クウには見えないようですね」


巫が説明すると、クウは不思議そうに目を凝らした。


「でも、椅子は動いてる……」


シアは自嘲的に笑った。


「そう、みんなそう。私がいても、いないことになる」


巫は特別な茶葉を選び始めた。月影草という、月の光でしか育たない希少な茶葉。そして、乾燥させた蝶豆の花を加える。


「なぜ、姿を消す力を?」


「……生きるためよ」


シアは俯いた。


「盗賊として生きるには、見つからないことが一番。でも、まさかここまで徹底的に消えるとは思わなかった」


茶釜の湯が沸き始めた。立ち上る湯気が、シアの輪郭をより鮮明にする。


「最後に誰かと話したのは、いつですか」


「覚えてない。話しかけても、みんな気づかない。触れても、風だと思われる」


シアの声が震えた。


「私、本当に存在してるの?」


巫は丁寧に茶を淹れた。二つの茶碗に、同じように注ぐ。


「はい、あなたの分です」


差し出された茶碗を、シアは震える手で受け取った。


「温かい……」


涙が零れた。


「誰かが、私のために何かをしてくれたのって、いつぶりだろう」


最初の一口。シアの表情が変わった。


「これは……」


「蝶豆の花茶です。色が変化するのが特徴です」


茶碗の中で、青かった茶が、ゆっくりと紫に変わっていく。


「私みたい。姿を変えて、でも中身は同じ」


その時、巫の記憶が蘇った。


――月の神殿。秘密の通路を、音もなく歩く自分。


「巫よ、時には見えない存在となれ」


「はい、大神官様」


「月の秘密を守るため、影となり、誰にも気づかれずに動くのだ」


孤独な任務。誰とも話せない日々。まるで、自分が消えていくような感覚。


でも、ある日。


「お姉ちゃん、かくれんぼしてるの?」


妹だけは、どんなに姿を隠しても見つけてくれた。


「みーつけた!」


「どうして分かるの?」


「だって、お姉ちゃんだもん」


記憶が現在に戻る。巫は優しくシアを見つめた。


「私も、見えない存在として生きた時期がありました」


「あなたも?」


「ええ。でも、たった一人、いつも見つけてくれる人がいました」


シアは茶碗を両手で包んだ。


「いいな。私には、もう誰も……」


すると、銀糸が天井から降りてきて、シアの周りをくるくると回った。


「あら? この子は?」


「銀糸です。茶房の守護霊」


銀糸はシアの手の甲に、そっと脚を乗せた。


「この子にも、私が見えるの?」


「銀糸は、心で見るんです」


シアは初めて、心から笑った。その瞬間、彼女の姿がはっきりと見えるようになった。


「私、ここに来てよかった」


「また来てください。いつでも」


「でも、私、盗賊よ?」


「何を盗むかによります」


巫は新しい茶を淹れた。


「これは、『存在の茶』と呼んでいます」


シアが飲むと、体中に温かさが広がった。


「自分が、ここにいるって感じる」


「そうです。あなたは確かに、ここにいます」


その時、アカリが静かに現れた。


「素敵な蝶の刺青ですね」


「え? あなたにも見えるの?」


「ええ。月の光は、隠れたものを照らしますから」


シアは立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとう。私、もう一度やり直してみる」


「盗賊を?」


「ううん。今度は、人の心を盗む怪盗になる。良い意味で」


シアは茶房を出る前に振り返った。


「ティーカップ、一つもらっていくわ。形見として」


「どうぞ。でも、それは盗むのではなく、差し上げます」


シアは涙ぐみながら笑った。


「優しい盗賊って、変かな?」


「素敵だと思います」


シアの姿が、月光と共に消えていった。でも、もう孤独な消失ではない。自分の意志で、姿を変える力として。


残されたテーブルには、一枚の蝶の羽が落ちていた。青から紫へ、美しく色を変えながら。


「見えないものも、確かに存在する」


巫は羽を大切に拾い上げた。


きっとシアは、もう二度と「存在しない」恐怖に襲われることはないだろう。誰かが見ていてくれる。その確信さえあれば、人は生きていける。


茶房に静寂が戻った。でも、温かい誰かの気配は、まだ残っていた。

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