第15話 書かれなかった詩と黒糖



月が中天にさしかかる頃、茶房の扉が静かに開いた。


入ってきたのは、古びた革鞄を抱えた少年だった。十五、六歳だろうか。手には何度も握りしめたらしい、使い込まれた万年筆。


「いらっしゃいませ」


巫(かなめ)が声をかけると、少年は唇を動かした。だが、声は出ない。


申し訳なさそうに、鞄から小さな手帳を取り出した。震える手で文字を綴る。


『声が出ません。それでも、いいですか?』


「もちろんです。どうぞ、おかけください」


少年はほっとしたように椅子に座った。名前を書こうとして、ペンを止める。


『ハル、と呼んでください』


「ハルさんですね。何かお飲みになりますか」


ハルはしばらく考えてから、書いた。


『言葉を……言葉を取り戻せる茶はありますか』


巫は少年の瞳を見つめた。そこには、押し込められた無数の言葉が、出口を求めて渦巻いているように見えた。


「詩人、でしょうか」


ハルは驚いたように顔を上げ、激しく頷いた。


『どうして分かったんですか』


「手の動き、ペンの持ち方。そして何より、言葉を大切にする人の目をしています」


ハルの目に涙が浮かんだ。慌てて手帳に書く。


『三か月前から、声が出なくなりました。詩の朗読会で、途中で』


クウが心配そうに顔を出した。


「何があったの?」


ハルは躊躇いながら、ゆっくりと書いた。


『自分の詩を、笑われました。「子供の言葉遊びだ」と』


巫は頷いて、特別な茶葉を選び始めた。黒糖の香りがする茶葉に、金木犀の花を少し。


「言葉は時に、刃物よりも鋭いですね」


ハルは俯いた。


『それ以来、書くこともできません。ペンを持つと、手が震えて』


「でも、今は書けています」


『これは……詩じゃないから』


巫は丁寧に湯を注いだ。黒糖の甘い香りが、茶房に広がる。


「詩とは、何でしょうか」


ハルは考え込んだ。


『分かりません。昔は分かっていたのに』


「では、これを飲みながら、一緒に探しましょう」


差し出された茶碗を、ハルは両手で受け取った。黒糖の優しい甘さが、喉を通って胸に広がる。


すると、不思議なことが起きた。ハルの手が、自然に動き始めたのだ。


『甘い けれど 苦い

 黒い けれど 透明

 この矛盾が 言葉』


書いた後で、ハルは自分の手帳を見つめた。


『あ、詩が……』


「素敵な詩です」


巫の言葉に、ハルは信じられないという顔をした。


その時、巫の記憶が蘇った。


――月の巫として、祝詞を唱える自分。でも、決められた言葉しか許されない。


「巫よ、言葉には力がある。定められた言葉のみを使いなさい」


でも、ある夜。


「お姉ちゃん、お月様に詩を作ってあげようよ」


妹と二人、月を見上げながら言葉を紡いだ。


「月は まんまる お団子みたい

 でも お腹は すかないよ

 だって 心が いっぱいだもの」


妹の詩は、どんな祝詞よりも月に届いた気がした。


記憶が戻ると、巫は優しくハルに語りかけた。


「詩は、正しさではありません。心を形にすることです」


ハルはまた書き始めた。今度は、ためらいなく。


『茶房の 静寂

 月の ささやき

 声なき 声が

 ここでは 聞こえる』


「美しい」


アカリが静かに呟いた。


「言葉にならない想いを、言葉にする。それが詩人の仕事ですね」


ハルは頷いて、さらに書いた。


『笑われても いい

 子供と 言われても いい

 でも この想いは 本物』


すると、銀糸が天井から降りてきて、ハルの手帳の上で踊るように動いた。まるで、見えない言葉を紡いでいるかのよう。


「銀糸も、詩を書いているみたい」


クウの言葉に、ハルは初めて微笑んだ。


巫は新しい茶を淹れた。今度は、もっと深い味わいの茶。


「声は出なくても、あなたの言葉は生きています」


ハルは茶を飲みながら、次々と詩を書いた。手帳がみるみる埋まっていく。


『月読茶房

 ここは 言葉の 避難所

 傷ついた 詩人の

 羽を 休める 場所』


「その詩、茶房に飾らせていただけませんか」


ハルは驚いて顔を上げた。


『本当に?』


「ええ。きっと、同じように言葉を失った人の励みになります」


ハルは嬉しそうに頷いた。そして、最後に一編の詩を書いた。


『声は なくても

 言葉は ある

 ペンと 紙さえ あれば

 世界は 詩に なる』


立ち上がったハルは、深々と頭を下げた。声は出ないが、その仕草にすべての感謝が込められていた。


「また来てください。新しい詩ができたら、聞かせてください」


ハルは笑顔で頷いた。


帰り際、ハルは振り返って、もう一度書いた。


『いつか 声で 詩を 読みます

 その時は 最初に ここで』


「楽しみに待っています」


ハルが去った後、巫は彼の詩を大切に額に入れた。


「言葉の力を、思い出しました」


「巫さんも、詩を書いていたの?」


クウの問いに、巫は遠い目をした。


「妹と一緒に、月への詩を……」


また一つ、記憶の欠片が戻ってきた。言葉には力がある。定められた言葉だけでなく、心から生まれた言葉にこそ、本当の力が宿るのだ。


茶房には、黒糖の甘い香りがまだ残っていた。そして壁には、声なき詩人の言葉が、月光を受けて輝いていた。

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