第13話 魔王の秘書と三度目の転職
月が雲間から顔を出した時、茶房の扉が勢いよく開いた。
「失礼します! 定刻通り、到着いたしました!」
きっちりとした黒いスーツに身を包んだ青年が、直角に頭を下げた。髪は一本の乱れもなく整えられ、眼鏡の位置まで完璧に計算されている。
「いらっしゃいませ」
巫(かなめ)が穏やかに迎えると、青年は踵を鳴らして直立した。
「魔王城秘書官、ディルクと申します。本日は転職のご相談に」
「転職、ですか」
「はい。これで三度目になります」
ディルクは持参した書類を几帳面にカウンターに並べた。履歴書、職務経歴書、さらには過去の評価シートまで。
「なんて几帳面な……」
クウが厨房から覗いて呟いた。
「すべて、規定通りです」
ディルクはカウンターの椅子に、定規で測ったような正確さで腰掛けた。
「して、転職の理由は?」
巫が茶の準備をしながら尋ねると、ディルクの眉間に皺が寄った。
「規律違反です」
「規律違反?」
「はい。魔王様は就業時間を守りません。会議は遅刻、書類は未提出、おまけに『細かいことは任せた』の一言で……」
ディルクの声が震えた。
「私は、ルールを守れない職場では働けないのです」
巫は静かに聞いていた。その几帳面さ、規律への執着。何か、深く心に響くものがあった。
「前職も、その前も、同じ理由でしょうか」
「ええ。商人ギルドでは『柔軟性がない』と言われ、騎士団では『規則に縛られすぎ』と」
ディルクは疲れたようにため息をついた。
「でも、規則は守るべきものでしょう? それが組織というものです」
巫は特別な茶葉を選んだ。規律正しく摘まれた煎茶に、時計草の花を少し加える。
「規則について、お聞きしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「規則は、何のためにあるとお考えですか」
ディルクは即答した。
「秩序を保つため。混沌を防ぐため。そして……」
言葉が止まった。
「そして?」
「……分かりません。ただ、守らなければならないと」
巫は丁寧に茶を淹れた。湯の温度、蒸らし時間、すべてを正確に。まるで、儀式のように。
「どうぞ」
差し出された茶碗を、ディルクは両手で受け取った。
「では、いただきます」
最初の一口。ディルクの表情が変わった。
「これは……規則正しい味? いや、でも何か違う」
「時計草が入っています。時を刻む花ですが、咲く時間は花それぞれ」
「花それぞれ……」
ディルクは茶碗を見つめた。
その時、巫の脳裏に記憶が蘇った。
――月の神殿。整然と並ぶ白い柱。そして、厳格な規律。
「巫よ、月の法に従いなさい」
「はい、大神官様」
「感情に流されてはならない。規律こそが、我々を導く」
毎日、同じ時刻に起き、同じ所作で儀式を行い、同じ言葉を唱える。それが月の巫としての務めだった。
でも、ある日。
「お姉ちゃん、規則って何のためにあるの?」
妹の無邪気な問いに、答えられなかった。
記憶が現在に戻る。目の前のディルクと、かつての自分が重なった。
「私も昔、規律の中で生きていました」
「え?」
「毎日が決められた通り。一分の狂いも許されない世界で」
ディルクは身を乗り出した。
「では、理解していただけますね。規律の大切さを」
「ええ。でも……」
巫は新しい茶を淹れ始めた。今度は、もっと自由な淹れ方で。
「規律は大切です。でも、それは何かを守るためにあるのではないでしょうか」
「守る?」
「魔王城の秘書として、あなたは何を守りたいのですか」
ディルクは困惑した表情を見せた。
「それは……職務を全うすることが」
「職務の先にあるものは?」
長い沈黙が流れた。
すると、クウが横から口を挟んだ。
「あのさ、魔王様って、きっとディルクさんがいるから安心して遅刻できるんじゃない?」
「は?」
「だって、ディルクさんが完璧に仕事してくれるから、魔王様は他のことに集中できる」
ディルクは眼鏡を外して、レンズを拭いた。
「そんな……私は、ただ規則を守っているだけで」
「でも、それがみんなを支えてるんだよ」
アカリも静かに頷いた。
「完璧な人がいるから、不完全な人も生きていけるのです」
ディルクの手が震えた。
「私は……私は、ただ認められたくて」
やっと、本音が漏れた。
「規則を守れば、誰も私を責めない。完璧なら、価値があると思って」
巫は優しく茶碗を差し出した。
「これは、少し型破りな淹れ方をした茶です。でも、味わってみてください」
ディルクが飲むと、意外な美味しさに驚いた。
「規則から外れても、美味しい」
「そうです。時には、型を破ることで見えるものもある」
ディルクは深く息を吐いた。肩の力が抜けていく。
「魔王様は、よく言うんです。『ディルク、お前は城の心臓だ』と」
「素敵な言葉ですね」
「でも、私は歯車だと思っていました。決められた通りに動く、ただの」
「心臓も規則正しく動きます。でも、時には早くなったり遅くなったり。それが生きているということ」
ディルクは初めて、心から笑った。
「三度目の転職、やめようかな」
「それがよろしいかと」
「明日、魔王様に謝ります。そして……少しだけ、柔軟になってみます」
立ち上がったディルクは、今度は自然な角度でお辞儀をした。
「ありがとうございました。規則の外にも、大切なものがあると分かりました」
「いいえ。規則も大切です。ただ、それに縛られすぎないように」
ディルクが帰った後、巫は静かに呟いた。
「月の規律に縛られていた頃の私も、あんな風だったのでしょうね」
「でも、今は違います」
アカリが優しく言った。
「ええ。今は、自分で選んで、ここにいます」
それでも、月の巫としての記憶は、まだ完全には戻っていない。規律の奥に隠された、本当の真実。それを思い出す日は、もうすぐかもしれない。
茶房に静寂が戻った。時計の音だけが、規則正しく時を刻んでいた。
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