第10話 妖術師と夜の甘露



 月のない闇夜だった。


 月読茶房の灯りだけが、暗闇に浮かび上がっている。そんな夜に限って訪れる客がいる。


 扉が音もなく開き、黒衣の男が入ってきた。顔は深いフードで隠されているが、纏う気配が尋常ではない。


「……客を取るのか、こんな夜でも」


 掠れた声が、闇に溶ける。


「月が出ていない夜こそ、灯りを求める方がいらっしゃいます」


 巫は動じることなく答えた。


 男は嘲笑するように肩を揺らした。


「灯り、か。俺にはもう、必要ないがな」


 フードを下ろすと、若い男の顔が現れた。ただし、その瞳は光を失い、頬には呪印のような模様が刻まれている。


「イグレイと呼ばれている。……元は、王立魔術院の研究者だった」


 アカリが息を呑む。クウは本能的に身構えた。


 王立魔術院といえば、大陸でも最高峰の魔術研究機関。そこを「元」ということは。


「禁呪に手を出したのですね」


 巫の言葉に、イグレイは自嘲的に笑った。


「ご明察。死者蘇生の研究をしていてな。成功すれば、どれだけの人が救われるかと思った」


 カウンターに着くと、その手が微かに震えているのが見えた。呪印が、脈打つように明滅している。


「結果は?」


「失敗だ。蘇ったのは抜け殻だけ。魂は戻らなかった。その代償として……」


 イグレイは自分の手を見つめた。


「触れるものすべてを腐敗させる呪いを受けた。花も、食べ物も、人も」


 巫は茶の準備を始める。特別な茶器を選び、慎重に扱った。


「それで、なぜこちらへ?」


「さあな。死に場所でも探していたのかもしれない」


 投げやりな口調だったが、巫は静かに続けた。


「いいえ。あなたは何かを求めてここに来た」


 イグレイの瞳が、一瞬揺れた。


「……最後に、まともな茶を飲みたかった。呪いのせいで、もう何年も口にしていない」


 巫は頷き、特別な茶葉を取り出した。


「夜の甘露茶を淹れましょう」


「夜の甘露……?」


「月のない夜にだけ採れる特別な露で育てた茶葉です。どんな呪いも受け付けない」


 巫の手つきを、イグレイは疑いの目で見つめていた。だが、茶葉が湯に浸かり、深い紫色が広がる様を見て、息を呑んだ。


「美しい……」


 茶がイグレイの前に置かれる。彼は震える手で茶碗を取った。


「本当に、大丈夫なのか」


「信じてください」


 巫の瞳には、確信があった。


 イグレイは恐る恐る口をつけた。


 一口、また一口。


 涙が、頬を伝った。


「甘い……本物の、甘さだ」


 何年ぶりかの、腐敗しない味。呪いに侵されない温もり。


「どうして……どうして俺なんかに」


 イグレイの声が震えた。


「俺は禁呪に手を出した。多くの人を巻き込んだ。触れるものすべてを腐らせる化け物だ」


 巫は静かに自分の茶を飲みながら答えた。


「私も、禁じられた術を使ったことがあります」


 その告白に、全員が息を呑んだ。


「月の巫として、記憶を操作する術を。それも一種の禁呪です。人の心に踏み込み、書き換える」


 巫の瞳に、深い痛みが宿っていた。


「大義のためだと思っていました。世界を救うためだと。でも……」


 茶碗を見つめる。


「その術で、最も大切な人を傷つけました」


 イグレイが顔を上げた。


「あんたも……」


「はい。だから分かります。禁呪に手を出す者の心も、その後の絶望も」


 巫は続けた。


「でも、それでも生きている。なぜだと思いますか?」


 イグレイは答えられなかった。


「赦しがあるからです。自分で自分を赦せなくても、誰かが赦してくれる。その可能性がある限り、人は生きられる」


 クウが勇気を出して口を開いた。


「おいら、巫さんが記憶の術を使ってたなんて知らなかったっす。でも、今の巫さんは優しいっす。それが大事なんじゃないっすか?」


 アカリも頷く。


「過去は変えられません。でも、今からの選択は変えられますわ」


 イグレイは震える手で顔を覆った。


「俺は……俺は、ただ死んだ妻に会いたかっただけなんだ」


 ついに、本音が漏れた。


「病で逝った妻を、もう一度この手に。それだけが望みだった」


 巫は新しい茶を注いだ。今度は、夜の甘露に少し苦味のある薬草を加えて。


「奥様は、あなたが禁呪に手を出すことを望んだでしょうか」


 イグレイは首を振った。


「いや……きっと悲しむ。俺がこんな姿になったことを」


「では、奥様のためにも」


 巫は優しく微笑んだ。


「生きてください。呪いと共にでも、生きる道はあります」


 イグレイは信じられないという顔をした。


「こんな俺が?」


「ええ。触れられないなら、触れない形で人を助ける方法もある。あなたの知識は、まだ多くの人を救えます」


 銀糸が現れ、一本の糸をイグレイの前に垂らした。それは、かすかに光を放っていた。


「これは……」


「希望の糸です。細くても、切れない糸」


 イグレイは長い間、その糸を見つめていた。


 やがて、立ち上がった。


「礼を言う。まさか、もう一度まともな茶が飲めるとは思わなかった」


 懐から金貨を取り出そうとして、手を止める。


「……触れたら、腐ってしまう」


「対価は必要ありません」


 巫は首を振った。


「ただ、生きてください。それが何よりの礼です」


 イグレイは深く頭を下げた。


「忘れない。この茶の味も、あんたの言葉も」


 扉へ向かいながら、振り返った。


「もし俺が、呪いを制御する方法を見つけたら……また来てもいいか」


「もちろんです。夜の甘露茶を用意して待っています」


 イグレイは初めて、微かに笑った。呪印に歪められた顔だったが、確かに笑顔だった。


 闇夜に消えていく後ろ姿を、巫たちは見送った。


「巫さん」


 アカリが心配そうに声をかける。


「禁呪のこと、思い出したんですね」


 巫は頷いた。


「月の巫の記憶操作術。それを使って、多くの人の記憶を消しました。戦争の記憶、憎しみの記憶」


 茶碗を片付けながら続ける。


「正しいと信じていました。でも、記憶を消すことは、その人の一部を殺すこと。今なら分かります」


 クウが尻尾を垂らした。


「でも、巫さんは今、記憶を大切にしてるっす」


「ええ。だからこそ、茶房を開いたのかもしれません。償いのために」


 巫は窓の外を見た。月のない空に、星だけが瞬いている。


「どんな過去も、消せない。でも、それを抱えて生きることはできる」


 夜の甘露茶の香りが、まだかすかに残っていた。


 苦くて、でも最後に甘い、複雑な香り。


 人生の味に、似ていた。

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