第11話 雪解けのアメジスト
月明かりが茶房の障子を薄く照らす夜、風鈴がかすかに鳴った。
「失礼します」
扉を開けたのは、杖をついた初老の男だった。髪は雪のように白く、閉じられた瞼の奥で、眼球がゆっくりと動いている。
「いらっしゃいませ」
巫(かなめ)は静かに迎えた。男の手には、布に包まれた何かが大切そうに抱えられている。
「月読茶房……噂は本当だったのですね」
男はカウンターの椅子を探るように触れ、ゆっくりと腰を下ろした。
「鉱石職人のラザルと申します。もう、ほとんど目が見えません」
巫は何も言わず、茶の準備を始めた。厨房からクウが顔を出す。
「お客さん、目が……」
小声でつぶやきかけたクウを、巫は手で制した。
「何をお飲みになりますか」
「……私は、美しいものが見たいのです」
ラザルは震える手で布包みを開いた。中から現れたのは、見事なアメジスト(紫水晶)だった。月光を受けて、深い紫が妖しく輝いている。
「四十年、鉱石を磨いてきました。でも、もう……」
男の声が途切れた。巫は黙って茶葉を選び始める。
「お客様。目を閉じて味わう茶というものをご存知ですか」
「目を、閉じて?」
「ええ。見えるものだけが美しさではありません」
巫は特別な茶葉を取り出した。月光で育てられた白茶に、乾燥させた紫蘇の花を合わせる。そして、ラザルが持参したアメジストを茶釜の横に置いた。
「石の力も借りましょう」
湯が沸き始めると、不思議なことが起きた。アメジストが共鳴するように、かすかな音を立て始めたのだ。
「この音は……」
「石が歌っているのです」
巫は慎重に茶を淹れた。立ち上る湯気に、紫蘇の花の香りとアメジストの冷たい輝きが溶け込んでいく。
「どうぞ」
差し出された茶碗を、ラザルは両手で受け取った。
「温かい……」
最初の一口。男の表情が変わった。
「これは……花? いや、もっと深い何か……」
「味わってください。舌で、鼻で、肌で」
ラザルは目を閉じたまま、ゆっくりと茶を飲んだ。すると、彼の脳裏に次々と色彩が広がり始めた。
若い頃に見た朝焼けの金色。初めて磨いた水晶の透明な輝き。妻と見上げた夜空の群青。そして、生まれたばかりの娘の頬の薄紅色。
「見える……見えます」
涙が頬を伝った。
「色が、光が、全部……」
巫もまた、茶を一口含んだ。その瞬間、忘れていた記憶が蘇る。
――幼い頃、目を閉じて飲んだ茶の味。
「お姉ちゃん、目をつぶって飲むと、もっと美味しいよ」
妹の声が聞こえた気がした。あの時も、こんな風に目を閉じて、ただ味と香りだけを楽しんだ。見えないからこそ感じられる世界があることを、妹が教えてくれたのだ。
「私も昔、大切な人と目を閉じて茶を飲んだことがあります」
巫の言葉に、ラザルは顔を上げた。
「その方は?」
「……今はもういません。でも、こうして茶を飲むたび、その人の温もりを感じます」
ラザルは深くうなずいた。
「私も、これからは違う形で石と向き合えそうです。触れて、音を聞いて、心で感じて」
彼は懐からもう一つ、小さな包みを取り出した。
「これは、音で選んだ石です。きっと、良い音色を奏でてくれるはず」
包みを開けると、小さな鈴のような音がした。透明な水晶の中に、虹色の内包物が浮かんでいる。
「美しい、ですね」
巫がつぶやくと、ラザルは微笑んだ。
「あなたにも聞こえましたか。石の歌が」
「ええ」
二人はしばらく、石の奏でる微かな音に耳を傾けた。風鈴の音と重なって、不思議な和音を作り出している。
「もう一杯、いかがですか」
「お願いします。今度は、どんな色を見せてくれるでしょうか」
巫は新しい茶を淹れた。今度は、春の若葉を思わせる緑茶に、乾燥させた山査子の実を浮かべた。
ラザルが茶碗を持ち上げる。その手は、もう震えていなかった。
「職人として、まだできることがある」
「きっと、今まで以上に美しいものを生み出せますよ」
「そうですね。見えなくても、感じることはできる」
ふと、クウが厨房から声をかけた。
「あの、デザートを作ったんですけど……」
皿の上には、紫芋を使った水菓子。その上に、食用の花びらが散らされている。
「クウの新作です。よろしければ」
ラザルは水菓子を口に運んだ。
「甘い……そして、少し懐かしい味」
「紫芋です。アメジストと同じ色なんですよ」
クウの言葉に、ラザルは驚いた。
「この子は、私の石の色を?」
「クウは、お客様の大切なものを感じ取るのが得意なんです」
褒められて、クウの耳がぴくぴくと動いた。
ラザルは立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。目に見えない美しさを、思い出させていただいた」
「こちらこそ。石の歌を聞かせていただいて」
ラザルが帰った後、巫はアメジストをじっと見つめた。月光の下で、石は静かに輝いている。
「お姉ちゃん、きれいな石だね」
また、妹の声が聞こえた気がした。
「ええ、とても」
巫は目を閉じた。見えなくても、感じられるものがある。妹との思い出も、きっとこの胸の奥で、アメジストのように輝いているのだろう。
銀糸が天井から降りてきて、アメジストの周りを一周した。まるで、石の美しさを称えているかのように。
「今日も、良い夜でしたね」
アカリが静かに微笑んだ。その瞳は、新月の夜のように深い黒だった。でも、その奥には確かに光が宿っている。
見えないものの中にこそ、本当の美しさは隠れているのかもしれない。
茶房に静寂が戻った。風鈴だけが、石の歌の余韻を奏でていた。
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