第8話 鏡と檸檬の真実
月読茶房の扉が開き、フードで顔を隠した人影が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
巫が声をかけると、その人影はびくりと震えた。
「あの……ここは、本当に実在する場所なのでしょうか」
フードの奥から、不安げな声が漏れる。若い女性の声だった。
「ええ、実在しています。どうぞ、お掛けください」
女性は恐る恐るフードを下ろした。
アカリが小さく息を呑む。
それは、驚くほど美しい顔立ちだった。整った目鼻立ち、陶器のような肌、流れる黒髪。どこかの国の姫君のような気品がある。
しかし、その瞳には深い不安が宿っていた。
「私は……ミラと申します。でも、それも本当の名前かどうか」
ミラは震える手で、懐から小さな手鏡を取り出した。
「私は、自分が本物かどうか分からないのです」
巫は静かに茶の準備を始める。ミラの言葉に、胸の奥で何かが共鳴した。
本物とは何か。
自分もまた、その問いに苦しんでいるような気がする。
「どういうことか、お聞きしてもよろしいですか」
巫が優しく促すと、ミラは手鏡を見つめながら語り始めた。
「私は、とある国の姫として育ちました。でも、ある日気づいたのです」
声が震える。
「鏡に映る自分が、日によって違うことに」
クウが首を傾げる。
「顔が変わるってことっすか?」
「いえ、顔は同じです。でも……」
ミラは手鏡を巫に向けた。
「この鏡には、別の私が映ることがあるのです。同じ顔なのに、違う表情、違う感情を持った私が」
巫は鏡を覗き込んだ。そこには、確かにミラの顔が映っている。だが、よく見ると、瞳の奥に別の何かが潜んでいるような。
「それ以来、私は自分が本物かどうか分からなくなりました」
ミラの声が、涙で詰まる。
「もしかしたら、私は誰かの模造品かもしれない。鏡像が実体化しただけの、偽物かもしれない」
巫は茶葉を選ぶ手を止めた。
偽物。
その言葉が、深く突き刺さる。
自分も、月の巫として本物だったのだろうか。それとも、誰かの期待に応えるための偽物だったのだろうか。
「檸檬の茶を淹れましょう」
巫は黄色い実を手に取った。
「檸檬には、真実を映し出す力があると言われています」
ミラは不安そうに見守る。巫は檸檬を薄く切り、ガラスの急須に入れた。熱い湯を注ぐと、檸檬の香りが立ち上る。
「ミラさん」
巫は穏やかに問いかけた。
「あなたにとって、本物とは何ですか」
「それは……」
ミラは言葉に詰まった。
「みんなが認める私、でしょうか。国民が慕う姫、両親が愛する娘」
「では、鏡に映る別の私は?」
「分かりません。でも、時々、あちらの方が本当の私のような気がして」
巫は檸檬茶をミラの前に置いた。透明な茶に、檸檬の輪切りが浮かんでいる。
「飲む前に、茶碗を覗いてみてください」
ミラが茶碗を覗き込む。水面に、自分の顔が映った。
「これは……」
驚きに目を見開く。茶碗に映る顔は、手鏡とは違う表情をしていた。穏やかで、安らいだ表情。
「本当の私……?」
「いいえ」
巫は首を振った。
「それも、あなたの一面です」
ミラが顔を上げる。巫は続けた。
「人は誰でも、多面的な存在です。姫としての顔、娘としての顔、一人の女性としての顔。それらすべてが本物です」
アカリが優しく微笑む。
「私も、月の精霊の末裔として振る舞う時と、ただの女の子として過ごす時では、違う自分になりますわ」
クウも尻尾を振りながら同意する。
「おいらも! 真面目に働く時と、遊ぶ時では別人っす!」
ミラは茶を口に含んだ。檸檬の酸味が、心地よく広がる。
「でも、みんなは完璧な姫を求めています。いつも微笑んで、優しくて、美しい姫を」
「それは、他者の期待です」
巫の声に、深い響きがあった。
「期待に応えることと、自分を偽ることは違います」
その瞬間、巫の脳裏に記憶が蘇った。
月の神殿。
大勢の信者たちが跪いている。その中心に立つ、銀髪の巫。それは自分だ。
「月の巫様、我らに神託を」
「お導きください」
皆が求める完璧な巫。感情を持たず、ただ月の意志を伝える器。
でも、本当の自分は。
妹と笑い合いたかった。普通の姉でいたかった。
「私も……」
巫の声が震えた。
「かつて、役割に縛られていました。月の巫として、完璧でなければならないと」
ミラが驚いて顔を上げる。
「巫さんも?」
「ええ。感情を殺し、ただ使命を果たす。それが本物の巫だと信じていました」
巫は自分の手を見つめた。
「でも、それは自分を否定することでした。笑いたい時に笑えず、泣きたい時に泣けない。そんな存在が、本当に『生きている』と言えるでしょうか」
ミラの瞳から、涙がこぼれた。
「私、本当は……」
声を詰まらせる。
「時々、叫びたくなるんです。完璧な姫なんてやめたいって。普通の女の子として、失敗したり、怒ったり、思い切り泣いたりしたいって」
「それでいいんです」
巫は優しく微笑んだ。
「完璧な姫である必要はありません。不完全で、多面的で、矛盾を抱えた人間。それが本物のあなたです」
ミラは手鏡をもう一度見つめた。
「あ……」
鏡の中の自分が、微笑んでいた。今の自分と同じ、涙混じりの笑顔で。
「同じ顔になった」
「きっと、もう一人のあなたも、認められたがっていたのでしょう」
巫は新しい茶を注いだ。今度は、檸檬に蜂蜜を加えて。
「酸っぱさも甘さも、両方あって初めて深い味わいになります。人も同じです」
ミラは深く息を吸い込んだ。
「私、決めました」
その声に、力が宿っていた。
「これからは、すべての自分を受け入れます。姫としての責任は果たしつつ、でも、自分の感情も大切にします」
立ち上がったミラは、もうフードで顔を隠さなかった。
「ありがとうございました。やっと、鏡を怖がらずに済みそうです」
「それは良かった」
巫は頷いた。でも、ミラは立ち去る前に振り返った。
「巫さん」
「はい?」
「あなたも、すべての自分を受け入れられますように」
その言葉に、巫は息を呑んだ。
ミラは優しく微笑んで、茶房を後にした。
扉が閉まると、巫は震える手で自分の茶碗を取った。水面に映る顔は、月の巫の顔ではなく、ただの女性の顔だった。
「巫さん」
アカリが心配そうに寄り添う。
「月の巫だったこと、思い出したんですね」
巫は頷いた。
「でも、まだ断片的です。なぜ巫をやめたのか、なぜ記憶を失ったのか」
クウが不安そうに耳を垂らす。
「巫さん、変わっちゃうんすか? 怖い人になっちゃうんすか?」
「いいえ」
巫は微笑んだ。
「私は私です。月の巫だった過去も、茶房の主人である今も、すべて私なのですから」
でも、心の奥では不安が渦巻いていた。
すべてを思い出した時、今の自分でいられるだろうか。
檸檬の香りが、まだ店内に漂っている。
真実の香り。
それは時に、苦く、痛みを伴うけれど。
でも、受け入れなければ前に進めない。
銀糸が、複雑な模様を描きながら糸を紡ぐ。
記憶の糸が、少しずつ全体像を作り始めている。
月の巫と、一人の女性。
その二つの自分が、やがて一つに。
その時、何が起きるのか。
巫は窓の外の月を見上げた。
月は、変わらず静かに輝いている。
新月も、満月も、すべて同じ月。
形を変えても、本質は変わらない。
人も、きっと。
そう信じたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます