第7話 泥とミントの騎士団



 雨が降っていた。


 月読茶房の扉が重く開き、泥だらけの青年がよろめきながら入ってきた。騎士団の紋章が刻まれた鎧は、見る影もなく汚れている。


「申し訳ない……床を汚してしまって」


 青年は立ち尽くしたまま、呆然と呟いた。


「構いません。どうぞ、お掛けください」


 巫は静かに促す。青年は躊躇いながらも、カウンターの端の席に腰を下ろした。雨と泥の匂いが、店内に広がる。


「タオルをお持ちします」


 クウが素早く温かいタオルを差し出す。青年は震える手でそれを受け取った。


「ありがとう……」


 顔を拭うと、まだ若い顔立ちが現れた。二十歳前後だろうか。瞳には深い絶望が宿っている。


「レオンと申します。第三騎士団の……いや、元第三騎士団の補給係でした」


 巫は黙って茶の準備を始める。青年の様子から、今は多くを語りたくないことが分かった。


「何か温かいものを」


 巫は茶葉を選ぶ。泥と雨に濡れた者には、まず体を温めることが大切だ。そして……


 ミントの葉を手に取った瞬間、巫の手が止まった。


 このミントの香りは、何かを思い出させる。戦場の記憶。泥にまみれた誰かを助けようとした記憶。


 でも、それ以上は思い出せない。


「ミントティーはいかがですか」


「ミント……」


 レオンが顔を上げた。


「部隊にいた頃、みんなでよく飲みました。戦場でも育つ数少ない薬草だから」


 巫は丁寧に湯を注ぐ。透明な湯に、ミントの緑が美しく広がっていく。


「でも、もう……」


 レオンの声が途切れる。


「任務に失敗したんです。補給路の確保。簡単な任務のはずだった」


 アカリが心配そうに見守る中、レオンは震える声で続けた。


「敵の奇襲を受けて、荷物を全部失いました。食料も、薬も、全部。仲間は何とか生き延びたけど、俺のせいで……」


 拳を握りしめる。泥で汚れた手から、血が滲んでいた。


「騎士団を追放されました。当然です。補給係が補給を失うなんて」


 巫はミントティーをレオンの前に置いた。湯気が立ち上り、清涼な香りが広がる。


「まず、お飲みください」


 レオンは茶碗を手に取る。温かさが、凍えた手に染み渡った。


「うまい……」


 一口飲むと、涙がこぼれた。


「仲間たちと飲んだ味だ。でも、もう俺には……」


「レオンさん」


 巫は静かに問いかけた。


「騎士団に入った理由を、聞かせていただけますか」


 レオンは驚いたように顔を上げた。


「理由……?」


「はい。なぜ騎士になろうと思ったのか」


 レオンは少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。


「村が、魔物に襲われたんです。俺が十歳の時。騎士団が来てくれなかったら、全滅していました」


 ミントティーを見つめながら続ける。


「あの時の騎士たちが、かっこよくて。俺も人を守れる騎士になりたいと思った。でも……」


 自嘲的な笑みを浮かべる。


「俺には剣の才能がなかった。魔法も使えない。できるのは、荷物運びと計算くらい」


「それで補給係に」


「ええ。でも、俺は誇りを持っていました。前線で戦う仲間を支えるんだって」


 レオンの声が、また震え始めた。


「なのに、失敗した。一番大事な時に」


 巫は立ち上がり、棚から何かを取り出した。古い布包みだった。


「これを見ていただけますか」


 布を開くと、中から古びた騎士団の紋章が現れた。ただし、それは泥で汚れ、傷だらけだった。


「これは……」


「昔、ある騎士からいただいたものです」


 巫の瞳が、遠くを見つめる。


「その方も、大きな失敗をしました。仲間を守れなかった、と」


 レオンが息を呑む。


「でも、その方は言いました。『泥にまみれても、立ち上がることに意味がある』と」


 巫は紋章を撫でた。その瞬間、記憶が鮮明に蘇った。


 戦場。


 泥の中で倒れている自分。


 月の巫として、多くの兵士の記憶を消去する任務。でも、それを拒否して。


「人は誰でも失敗します」


 巫の声に、深い響きがあった。


「大切なのは、その後どう生きるか」


 レオンの瞳に、小さな光が宿る。


「でも、俺にはもう……」


「騎士団だけが、人を守る方法ではありません」


 巫は微笑んだ。


「あなたには計算の才能がある。補給の知識もある。それは、別の形で人を救えるということです」


 クウが元気よく口を挟む。


「そうっすよ! おいら、計算苦手だから、そういう人すごいと思うっす!」


 アカリも頷く。


「商人として成功する方もいれば、村の物資管理で人々を支える方もいます。道は一つではありませんわ」


 レオンは茶碗を見つめた。ミントの香りが、まだ優しく漂っている。


「仲間たちは……俺を責めなかった」


 ぽつりと呟く。


「『お前のおかげで今まで戦えた』って。『また一緒に戦おう』って」


 涙が、また溢れる。


「でも、俺が自分を許せなかった」


 巫は静かに頷いた。


「自分を許すことが、一番難しいのかもしれません」


 そして、新しい茶を注いだ。今度は、ミントに少し生姜を加えて。


「でも、許さなければ前に進めません」


 レオンが新しい茶を飲む。温かさが、心まで届いたようだった。


「巫さん」


 レオンが顔を上げた。その瞳に、もう絶望はなかった。


「俺、もう一度やり直してみます。違う形でもいい。人を支える仕事を」


 巫は優しく微笑んだ。


「応援しています」


 レオンは立ち上がった。泥だらけの鎧が、月光を受けて少し輝いて見えた。


「ありがとうございました。この恩は忘れません」


「恩などではありません」


 巫は首を振った。


「ただ、お茶を飲んでいただいただけです」


 レオンは深く頭を下げ、扉へ向かった。振り返ると、力強く言った。


「いつか、胸を張って報告に来ます。新しい道を見つけたって」


 扉が閉まり、雨音だけが残った。


 巫は、古い紋章を見つめた。


 思い出した。


 あの騎士は、自分を守ろうとして命を落とした。月の巫である自分を、一人の人間として守ろうとして。


「巫さん」


 アカリが優しく声をかける。


「また一つ、思い出されたのですね」


 巫は頷いた。


「敗北の記憶です。でも……」


 紋章を胸に抱く。


「それでも立ち上がった人たちがいました」


 クウが掃除を始めながら言う。


「あの人、きっと素敵な道を見つけるっすね」


「ええ、きっと」


 巫は窓の外を見た。雨はまだ降っている。でも、雲の切れ間から月光が漏れていた。


 泥にまみれても、人は立ち上がれる。


 失敗しても、新しい道を見つけられる。


 自分も、そうだったのかもしれない。


 月の巫としての任務に失敗し、すべてを失った。でも、ここで新しい道を見つけた。


 記憶を消すのではなく、記憶と向き合う道を。


 ミントの香りが、まだかすかに漂っている。


 戦場の記憶と、希望の香りが、不思議に混じり合って。


 銀糸が、静かに糸を紡ぐ。


 また一つ、記憶の糸が繋がった。


 痛みを伴う記憶だけれど。


 それでも、前に進むために必要な記憶。


 雨は、やがて上がるだろう。


 その時、泥だらけだった大地に、新しい芽が育つように。

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