数寄なる道は月より遠く

倉馬 あおい

(一)ただの一服

「そちが、と決まったぞ」

 家老である杉平すぎだいら外記げきは、黒茶碗を静かに璃々江りりえの前に置いた。その目は茶碗に注がれ、唯一の客である彼女を見ていない。


「……わたくしに、勤まりましょうか」

 意味のない問いであることは、璃々江も承知している。しかし、問わずにはいられなかった。討ち損じれば、お家お取り潰しもあり得るのだ。

 外記は、無言で視線をあげる。黒い穴のような目が、すっと細められて璃々江を射抜く。その沈黙が、答えだった。


 払暁ふつぎょうの茶室の仄暗ほのぐらさが、外の冷気よりも璃々江に薄ら寒さを感じさせる。いや、外記の冷たい眼差しの方が、寒さの原因もとかもしれない。


 自分が討っ手に選ばれることは、元日の一件を知って以来、璃々江はほぼ確信していた。あの武林たけばやしを討てるほどの手練てだれは、この福羽ふくう藩にも何人かはいるだろう。しかし、この獅子浦ししうら璃々江りりえには、鐘捲かねまき流小太刀目録の腕前の他にも、余人には無い技がある。故に討っ手は自分しかいない――何のてらいも驕りもなく、ごく冷静に考えて、彼女はそう結論づけていた。


「お点前、頂戴いたします」

 璃々江は畳の上をにじって、外記の置いた黒茶碗を手に取った。分厚い陶器を通じて伝わる温かさが、冷えた手に心地よい。茶碗を畳の縁内に置いたとき、中の黄色がかった濃茶色の液体が、とろりと揺れた。


 璃々江は一礼して押し頂くと、作法どおり茶碗を手前に二度回してから、そっと椀に口を付けた。ひと口啜ると、咖哩カレーの香気が鼻腔にあふれてくる。


(――小豆蔲カルダモンが、惜しげもなく――)

 いつもの癖で、つい璃々江は茶碗の中身を識別し始めた。南蛮渡来の香料の中でも、特に希少な小豆蔲カルダモンを事も無げに使うあたり、さすがに家老の座にある男の咖哩カレーである。


「分かるか」

 外記は、暗夜の水面みなものような目で璃々江を見つめた。璃々江の実力をあらためて推し量ろうとしているのだろうが――。

「……小豆蔲カルダモン肉桂シナモン、そして丁子クローブを共に炒めて香りを出し、しかる後に玉葱を焼いておりまするな」

 この程度を見抜けぬようでは、福羽藩咖哩道指南役は勤まらぬ。璃々江はいまひと口、茶碗の中身を口に含んだ。


「十二分に玉葱を焼いたのち、水でいた大蒜ニンニク生姜ショウガを加え、水気が飛ぶまで炒める。そこに裏漉しして煮詰めた唐柿トマトを混ぜ合わせて炒め、頃合いを見て火を弱めつつ、香料を加えまする」

 その香料は如何いかに、と問われる前に、璃々江は口を開いた。


「香料は粉にいた胡荽コリアンダーに赤唐辛子、鬱金ターメリック。塩も加えて十分混ぜたのち、水と鶏肉を加えて煮込みまするが……」

 しかし、と璃々江は言葉を切った。そのまま半刻はんときも煮込めば咖哩カレーは仕上がるが、この咖哩カレーには、かすかに、しかし、明らかに普通の咖哩カレーとは異なる深みが混じっている。この味は、まさか……。


 椀を傾けて最後のひと口を飲み切ると、璃々江は椀の飲み口を拭ってから、迷いなく答えた。「水と共に、南蛮茶紅茶を使われましたな」


「見事じゃ」

 珍しく、外記が相好を崩した。もし普段の家老を知る者が見たら、仰天するに違いない。

「さっすが、福羽藩咖哩道指南役ぞ。ただの一服で、それを見抜くか」

 討っ手の人選に満足した外記は、上機嫌で言い添えた。


「いかにもこれなる咖哩カレーの秘伝は、煮る折に加える南蛮茶紅茶。当家に伝わる秘伝じゃ、此度こたびの餞別として、その方に伝えよう」

「かたじけのうございます」

 璃々江は、深く頭を下げた。また一つ、咖哩カレーの秘伝を知ることができた喜びと、かつての師を討たねばならない悲痛さが、彼女の胸の中で混じり合っていた。

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