Saṃsāra - 第5章 : まなざし
ミーナは、ひとり静かな森を駆けていた。
けれど、どれだけ足を進めても、心だけはあの場所から離れられなかった。
置いてきたはずのレイジの魂が、痛みを通して、今も彼女を呼び続けていた。
あの瞬間、彼の「痛み」は確かに――彼女の中にも届いていた。
ガーヤの言葉に従い、役目を終えた者として彼の元を離れること。
導き手として、それは当然のことだった。冷静に、それを選ぶべきだった。
……なのに。
胸の奥を締めつける、この名もなき感情はなんだろう。
(……どうして、こんなにも胸が苦しいの……?)
ミーナはこれまで、幾度となく“巡り人”の魂と出会い、別れを繰り返してきた。
人としてではなく、“役割”として。
感情は邪魔になる。だから、心を閉じることに慣れていた。
けれど、レイジは――違った。
彼と過ごした日々。
村で笑い、時に拗ね、子どもたちに囲まれて照れる姿。
その裏に潜む、深い影と苦悩。
笑っていても、彼はいつも“罪”と“後悔”を背負っていた。
誰にも悟られぬように、それを懸命に隠していた。けれど、魂を視る目を持つミーナには、それが見えてしまう。
それでも、彼の仮面を壊したくなくて、何も言えなかった。
ようやく手にした、ささやかな「普通の幸せ」を壊したくなかった。
(私は……見て見ぬふりをしていたんだ……)
その気づきは、鋭い棘となって彼女の胸を突き刺した。
彼が、あの悲しげで不安そうな顔で振り向いた――
その一瞬が脳裏をよぎったとき、ミーナの中で何かが崩れた。
足が止まり、次の瞬間、彼のもとへ戻るように方向を変えていた。
迷いはなかった。導き手としての理性も、命令も、全部置いて――
ただ、レイジのもとへ走り出した。
「役目」なんて、もうどうでもよかった。
創造主の意思に背くことが、どれほどの代償をもたらすか。
それは理解していた。けれど、それでも構わなかった。
(たとえ……どんな罰を受けることになっても)
その想いだけが、ミーナの足を突き動かした。
風を切り、森を駆ける。
レイジの魂の震えが、まるで光のように彼女を導いていた。
そして――彼が見えた。
石碑の前で、震える手を伸ばそうとするレイジの姿。
そして、観えたレイジの魂が「助けて」と叫んでいる姿が…
その一瞬、ミーナの躊躇は消えた。
「さわっちゃだめーっ!!」
迷うことなく、身を宙に投げる。
彼を抱きしめた瞬間、ふたりの魂が交わり、石碑はまばゆい光に包まれた。
けれどその光は、決して安らぎだけのものではなかった。
静寂の中に滲む、かすかな痛み。
懐かしさの奥に漂う、終焉の匂い。
それはまるで――
抗えぬ運命によって引き裂かれることを知りながら、
最後に見つめ合う者たちのまなざし。
愛しさが痛みに変わり、希望が静かに裂かれていく予兆。
ふたりを隔てる宿命が、音もなく、その足元に迫っていた。
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