Saṃsāra - 第4章 : 記憶

老人は静かに微笑み、レイジの前で立ち止まった。

その目は何も語らぬまま、すべてを見透かすような静けさを湛えていた。


「……お名前は?」


レイジの問いに、老人はゆっくりと口を開いた。

「我が名は……ガーヤ。この世界では、そう呼ばれている」

低く響くその声は、まるで地の底からわきあがるようであり、同時に風のように優しかった。

その声を聞いた瞬間、ミーナはぴたりと足を止めた。

そして、わずかに俯き、震える声でつぶやく。


「ここまでが……私の役目だよ、レイジ」


「え……?」


ミーナは振り返らなかった。彼女の背中には、ほんの少しだけ揺れる迷いと、別れの影があった。

「これから先は、あなた自身の旅。あなたの魂に眠るものと向き合うのは、あなたでなければならない」

レイジは言葉を失い、止めようとした手を、しかし伸ばすことができなかった。

彼女の中にある“意志”が、そして、自身の胸の奥に疼く痛みが、それを拒むのを感じたからだ。

次の瞬間、その痛みがさらに大きくなり、レイジは思わず膝をついた。

ミーナは反射的に手を伸ばしかけたが――


「それ以上、近づいてはならぬ」


ガーヤの静かな言葉が、空気を凍らせるように響いた。

ミーナはその言葉に立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。

苦悶の表情を浮かべるレイジを前に、ただひとしずくの涙を落とし、振り返らずに走り去る。

レイジの痛みは、ミーナが遠ざかるにつれて、不思議と少しずつ静まっていった。


「この痛みを乗り越えたくば、我と共に来るがよい」


ガーヤはそう言って背を向け、歩き出した。

レイジは、なぜかその背に逆らうことができなかった。

意思とは別の、もっと深い場所で、何かが彼を突き動かしていた。

二人となった彼らは、静かな森を歩いた。

風もなく、音もない。まるで時間さえも止まったような静寂の中で、木々だけが淡く揺れていた。

やがて彼らは、一枚の石碑の前にたどり着いた。

その石碑には、異なる文字が刻まれていた。レイジには読めない文字──けれど、不思議と意味は心に届いてきた。

「魂を映す場(カガミノミヤ)」


ガーヤが口を開いた。

「この場所は、魂を映し、正体を曝け出す場所。ここに立てば、否応なくお前自身の内側と向き合うことになる」

レイジは無意識に喉を鳴らした。


「……見えるんですか、俺の中が」


「否、“観ずる”のだ。五蘊(ごうん)を離れ、ただ“如実に受け容れる”ということじゃ」


「……」


レイジは理解しきれない言葉に戸惑いながらも、なぜか逆らうことができなかった。

頭では理解できなくても、魂の奥深くで何かが反応していた。問いかけのような、呼びかけのような感覚が、ガーヤの言葉に重なる。

ガーヤはそのまま静かに言葉を重ねる。


「お前は、痛みによって生きることを知り、他者の苦しみを通して自己を知った。だがそれだけでは、次には進めない」


その言葉が胸に届いたとたん、

レイジの中で、閉ざしていた記憶が暴れだした。

──この世界では思い出したくなんてなかった…。

**

あの頃の自分は、命令ひとつで動くただの人形だった。

組織のボスの声は、すべてだった。

「生き残るためには逆らうな」

そのルールだけを握りしめて、感情も意志も、全部捨ててきた。

**

あんな自分を、また覗き込まなきゃならないのか。

恥ずかしさ、悔しさ、恐怖――

そして、何より「それを見ろ」と言われているような気配に対する、怒り。

心の中がぐちゃぐちゃにかき乱され、息が詰まる。

胸の奥が焼けるように痛んだ。

──もう、やめてくれ……!

その言葉が胸に届いたとたん、

レイジの中で、閉ざしていた記憶が暴れだした。


──この世界では思い出したくなんてなかったんだ。


あの頃の自分は、命令ひとつで動くただの人形だった。

組織のボスの声は、すべてだった。

「生き残るためには逆らうな」

そのルールだけを握りしめて、感情も意志も、全部捨ててきた。


あんな自分を、また覗き込まなきゃならないのか。


恥ずかしさ、悔しさ、恐怖――

そして、何より「それを見ろ」と言われているような気配に対する、怒り。


心の中がぐちゃぐちゃにかき乱され、息が詰まる。

胸の奥が焼けるように痛んだ。

──もう、やめてくれ……!


「……だから俺に、何をさせたいんだよ!!」

吐き捨てるような声が、森に響いた。


その瞬間、彼の声色には、かつての“レイジ”の荒さが滲んでいた。

転生後ずっと押し殺していた“本当の自分”が、感情に突き動かされて顔を出す。

だが、ガーヤの顔はただ静かだった。いや異様であった…。

まるで、過去に自分を刺した、あの男のように――。

そして、石碑の前に立ち、手を広げながら静かに問う。

「感じよ。そして、魂に刻まれしものを“受け容れる覚悟”を持て」

その言葉は、命令でも、懇願でもなかった。ただ、ひとつの“道”としてそこにあった。


レイジは、ゆっくりと歩み出す。身体とは別に魂が引き寄せられている…。

胸の奥で、何かが震えた。

それは恐れか、怒りか、後悔か――もはや判別すらつかない。

だが、そのすべてを抱えたまま、彼は石碑の前に立った。

――終わりたくない。こんなカタチで終わってたまるか。

やっと、自分の「生きる」意味を見つけられたのに。

けっして失いたくないとさえ思った日常だったのに…。


「……助けて……」


その言葉は、過去のレイジが決して口にしなかった叫びだった。

震える手が、石碑に触れようとした、その瞬間――

「さわっちゃだめーっ!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る