第2話 名前を呼ばれた日

 夜、自室の机に向かっていた翔真は、ノートを開いたまま手を止めていた。


 今日、雪乃に名前を呼ばれた瞬間が、ずっと頭から離れない。


(……榊くん)


 教科書の上に突っ伏し、腕で顔を隠す。


 別に特別なことじゃない。きっとクラスメイトとして当たり前の気遣い。

 それを分かっているのに、胸が変にざわつく。


(やめろ……変な期待するなよ)


 自分にそう言い聞かせるたび、逆に雪乃の笑顔ばかり思い出してしまう。

 少し曲がったリボン。細い指。柔らかな声。


 そして、あの「またね」という無邪気な一言。


 翌日。

 学校に行けば、相変わらずクラスは翔真に冷たい。


「ねえ、榊って、昨日また独りでいたよね?」


「そうそう、いつも下向いてるし。なんか……怖くない?」


 聞こえないふりをして席につき、鞄を机の横に掛ける。

 ふと前を見ると、雪乃が数人の女子に囲まれて笑っていた。


(あの輪には、絶対に入れないんだ)


 そんな当たり前のことを再確認するたび、胸が鈍く痛む。


 放課後、昇降口へ向かう廊下で、雪乃とまた鉢合わせた。


「あ……」


 雪乃も少し驚いた顔をして、でもすぐに微笑んだ。


「榊くん、今日も帰り?」


「……うん」


 短く答えるしかできない。

 雪乃は「そっか」と頷き、何か言いたげに少し口を開いて――でも、結局何も言わずにそのまま行ってしまった。


 翔真は誰もいない廊下で立ち尽くした。


(なんだよ、俺は……)


 どうしてこんなに情けないんだろう。

 あのとき、一言でも何か返せたら、もっと普通に笑いかけられたら。


 でもできなかった。

 その悔しさだけが、ずっと胸の奥に溜まっていく。


 外に出ると、空は少し曇っていた。

 どこか遠くで、ゴロゴロと雷鳴のような音が響いている。


(早く帰ろう……)


 そんなふうに思いながら歩き出した翔真は、まだ知らなかった。


 この日が、自分にとって最後の「普通の放課後」になることを。


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