歪んだ日常の片隅で

透明な隣人

田口がこのアパートに越してきて、そろそろ一年になる。

隣室からは生活音がよく聞こえる。夜中の洗濯機、朝のドライヤー、椅子を引く音。

だが、一度も隣人の姿を見たことがない。

ゴミ捨て場で顔を合わせたこともなければ、表札に名前すらない。ベランダもつながっているはずなのに、洗濯物が干された形跡がまったくないのだ。

「……じゃあ、あの洗濯音はなんだったんだ？」

ある夜、田口はこっそり窓を開け、隣のベランダを覗いた。

そこはあまりに整然としていた。物干し竿もなく、足跡も、埃さえ落ちていない。まるで“誰も使っていない空間”。

その晩、彼は奇妙な夢を見た。

壁の向こうに人影が立ち、こちらを見つめている夢。顔は見えないのに、視線だけが焼きついた。

目を覚ますと、壁の向こうから「コン……コン……」とノック音が聞こえた。

……誰か、いるのか？

意を決して壁に耳を当てると、すぐに“コン”と返ってきた。

ぞくりと背筋が震え、以来、田口はその音に悩まされるようになった。寝ようとすると始まり、目が覚めると止まる。それはまるで、誰かが「起きて」と呼びかけているような音だった。

我慢できなくなった田口は、ついに隣室の前に立った。

静かにドアに手を伸ばしたそのとき、視界の端に表札が映った。

「田口」

目を疑った。

自分の部屋は202号室のはず。今立っているのは203号室、左隣の部屋だ。

「え？」

再度見ると、表札の文字は消えていた。まっさらな白。

鼓動が早まる。田口は急いで部屋に戻り、管理会社に電話をかけた。

「隣の部屋、誰が住んでるんですか？」

電話口の女性が答える。

「203号室ですか？　そこ、ずっと空き部屋ですよ」

……じゃあ、今まで聞こえていた音は？　夢の中の視線は？

あの“コン”という壁の音は――？

部屋に戻った田口の耳に、再びノック音が響いた。

こん、こん……今度は、壁ではなく、玄関のドアから。