歪んだ日常の片隅で
暁基朋也
彼女は左利きだった
いつもと変わらない朝。目覚ましが鳴って、コーヒーの香りで頭が起きる。
隣には、彼女がいるはずだった。
いや、正確には——いないはずだった。
「おはよう」
テーブルの向こうで、彼女は笑っていた。
昨日と同じ声、同じ笑顔。だが、コーヒーカップを持つ手が——右手だった。
違和感。
彼女は、左利きだった。
彼女がいなくなったのは、一ヶ月前。交通事故だった。
雨の夜、歩道を歩いていたところに、居眠りトラックが突っ込んできた。
あの日以来、俺はずっと現実が止まっていた。
「あなた、顔色悪いよ。大丈夫?」
心配そうに覗き込むその顔に、かすかに違和感がある。
そうだ。前髪の分け目が逆だ。
唇のほくろも、右側じゃなかったか?
「ごめん、少し寝不足で」
俺は笑ってごまかした。
その日から、彼女は毎日現れた。
料理をし、テレビを見て、笑い、眠る。まるで生きているように。
俺もだんだんと「彼女がここにいること」に疑問を持たなくなっていった。
でも——やっぱりおかしい。
好きだった料理の味付けが少しずつ違う。歌の歌詞を間違える。名前を呼ぶと、一瞬“間”がある。
ある夜、俺は決心して、問いかけた。
「君は……誰だ?」
彼女はスプーンを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「……どうして、そう思ったの?」
「彼女は左利きだった。君は、ずっと右手でコーヒーを飲む」
彼女は静かにスプーンを置いた。
「……惜しかったな。もっと気づかれないと思ってた」
そう言って、彼女はゆっくりと立ち上がった。
目の色が少しずつ変わっていく。声も、姿も、輪郭も——人ではない“何か”に変わっていく。
「まあ、いいか。また別の人を探すだけだし」
そう言って“それ”は、影のように消えた。
静かになった部屋に、残されたコーヒーカップが一つ。
その取っ手は、左側に向いていた。
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