第3話 同志からのお誘い
サイン会場は経験したことのない類の熱気が籠っていて、こういう場所に足を踏み入れること自体初めての俺は圧倒されたものの、大好きな南條先生の前で緊張しまくる堤さんのフォローに努めた。
その成果もあって、彼女は無事にサイン本を入手できたのだった。
「すっごく楽しかったです! 南條先生好きの方々ともお話できて……まだ夢の中にいるみたいです。なんだか足元がふわふわします」
近くの喫茶店で一緒に昼食を食べている今もずっと、堤さんはすこぶるご機嫌だった。目をきらきらと輝かせながら饒舌に話るその姿は、子どものような可愛らしさがある。
このサイン会に付き添ったことで、俺は上野の美術館巡りを諦めるしかなくなってしまった。……残念だけど人助けができたと思えばいいか。侑里にはめちゃくちゃバカにされそうだけどな。
「そっか、本当に良かったよ。家まで送ってあげられなくて申し訳ないけど、ここで解散しよう。飛行機の時間が結構ギリギリなんだ」
楽しそうな彼女の手前言い出しにくかったものの、俺は三十分前くらいから焦りまくっている。思ったより時間がかかってしまった。ただでさえ土地勘のない場所だ。早め早めに行動しておきたいというのに。
「だったら、帰るのは明日にすればいいじゃないですか」
無垢な瞳を向けられて、絶句してしまった。この子、大丈夫だろうか? いくらお嬢様とはいえ世間知らずすぎて、心配になってくる。
「飛行機のチケットって、事前に予約するものなんだよ。俺たちが乗る便はすでに決まっていて、」
「それくらいはわたしでも知っていますよ。ですから、小宮さんと侑里さんの飛行機代は、わたしが払うと言っているのです」
生まれも育ちも日本であるはずの俺が、彼女の日本語を全く理解できなかった。
「……念のため、聞き返してもいい? 俺と侑里の飛行機代を払うって言った?」
「はい! わたしはもっと小宮さんとお話したいんです」
金銭の絡むそんな我儘、親はなんて言うのだろうか? 俺の疑問は困惑として顔に出ていたのだろう。堤さんはクスっと笑って、
「わたしには両親と兄がいますが……今日はわたししか家にいないので、どうか安心して泊まっていってください」
そう言って寂しそうな顔で笑うものだから、少し躊躇ってしまった。
俺がこの誘いを断ってしまったら、堤さんは今日、家でひとりになってしまうということか。サイン本を入手してテンションが高い分、帰ってから家が静かなのは辛いんじゃないだろうか。
「うーん……さすがにお金がかかる話だし、好意に甘えるわけにはいかないって」
「お金とか両親のことを気にするのはやめてください。……これだけお願いしても、ダメでしょうか?」
「いや……でもさ……昨日の感じを見るに、堤さんは侑里のこと好きじゃないよね? 泊まりなんて無理だと思う」
大学構内という人目のつく場所で少し話しただけで、あれだけ侑里に悪態をついているのだ。そんな堤さんがどうして俺と侑里をわざわざ家に誘うのか。
俺の言葉に堤さんの目が泳ぎ、そして申し訳なさそうに、頭を下げた。
「昨日はご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません……わたしは、どうしても侑里さんを前にするとあんな言い方になってしまうのです。お恥ずかしい話……あの方の才能に嫉妬を隠せないといいますか……ですが、決して嫌いなんてことはありません。むしろ、もっと近づきたいと、言いますか……」
彼女の言葉に痛いほど共感できた俺は、断る理由を失ってしまったのだった。
☆
事前にメッセージを送って事情を説明していたとはいえ、侑里は待ち合わせ場所で俺の顔を見るなり、不機嫌そうな表情を一層険しくさせた。
「宗佑……どうしてお前はそんなにバカなんだ? お前は泥棒が『今晩泊めてください~』って頼んできても泊めるのか?」
「……悪かったよ巻き込んで。でも、堤さんはそんな子じゃないって」
今回は珍しく侑里に落ち度がないため平謝りするしかなかった。
侑里は大きな溜息を吐いた。次はどんな罵倒をされるのかと身構えていると、予想に反して侑里は白い歯を見せた。
「バカは皆そうやって騙されるんだよ。……でもまあ、私だって千紗都を悪人だと思ってるわけじゃないし、普通に帰るより面白そうだし、今回は許してやろう」
きっとこいつは俺の行動に対してそこまで怒っているわけではなく、俺が謝ることによってアドバンテージを取りたいだけなのだろう。わかっていても今の俺の立場だと、礼を告げて感謝するしかない。
めちゃくちゃ上から目線のお許しを得てから、俺は侑里を少し離れた場所で待っていた堤さんのところに連れて行く。
俺と一緒にいるときは穏やかなお嬢様だった堤さんは、侑里を前にすると少し表情を硬くさせていた。
「あの……ゆ、侑里さん……」
「タダで泊めてくれるなんて、何を企んでいるんだ? 私の体か?」
「なっ……なにを言ってるんですか! そんなはずがないでしょう!」
侑里の冗談が通じるような子ではないらしい。堤さんは侑里が嫌いではないようだが、相性はまた別の話みたいだ。
今夜、ふたりは衝突せずに過ごせるのだろうか?
ニヤニヤ笑う侑里とギャーギャー捲し立てている堤さんを見ながら、俺は躊躇いつつも仲裁に入って、予想通りふたりから絡まれる羽目になった。
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