第2話 お嬢様

 さて、俺ひとりになったところで、上野に向かう目的に変わりはない。


 駅中に本屋があったので立ち寄った。旅行のときの移動くらいはスマホを見ないで過ごしたいと思うのは、俺だけだろうか。荷物はあまり増やしたくないけれど、移動時間中に読む小説か漫画が欲しいと思ったのだ。


 少年漫画の新刊を手に取ろうとしたとき、「あの」と声をかけられた。


「柏崎侑里さんの彼氏さん……ですよね?」


「え? ……あー……えーっと、堤千紗都さん……?」


 強烈な印象だったから俺は彼女の顔と名前を記憶していたが、俺を侑里の付属品程度にしか捉えていなかったであろうこの子が、俺を覚えていたとは意外だった。


「そうです。今日はおひとりなのですか? 侑里さんは?」


「今日はあいつはいないですよ。別行動なんで」


 てっきり落胆されると思っていたのだが、堤さんはパッと顔を輝かせた。


「あの、もし良かったらわたしに付き合ってくれませんか? 行きたい場所があるんです!」


 ほとんど初対面に等しい男を遊びに誘えるその軽さに、俺はたじろいだ。東京の女の子っていうのは、これくらいは普通なのか?


「あ、誤解しないでください。デートにお誘いしているわけじゃないんです。ただその、少し……困っていることがありまして……身近な方には相談しにくい内容なので、あなたならと……」


 硬直する俺の状態を見て察してくれたのか、堤さんは弁明をしはじめた。……いや、っていうか。これもまた怪しい話な気がするな?


 だけど困っているって言っているし、頼ってくれているし、このまま突き放すのも後味が悪い。それに……正直に言ってしまえば、俺は侑里に顔と名前を覚えられている彼女と、絵の話をしてみたいと思った。探求心と好奇心を抑えられなかった。


「じゃあ……はい。俺で良かったら」


「あ、ありがとうございます! では、行きましょうか。ええと、お名前をお伺いしても?」


 ……名前も知らない男をよく誘えたよな、この子。


「小宮宗佑です。侑里と同い年です」


「では敬語はおやめください。わたしのことは好きに呼んでもらって構いません。わたしは小宮さんとお呼びしますね。どうぞよろしくお願いいたします」


 めちゃくちゃテキパキしている。俺の周りにはなかなかいないタイプだ。


 買おうとしていた漫画を売り場に戻して名残惜しく一瞥した後、俺を先導するように出口まで歩くその後ろ姿を追った。


 歩幅の小さな堤さんに合わせながら歩きつつ、尋ねた。


「相談したいことって、なに?」


 本屋を出て、改札から少し離れた人の往来が比較的少ない場所に移動してから、堤さんはスマホの画面を俺に見せてきた。


 そこには『南條なんじょう先生サイン会~』という見出しの記事があった。軽く読んだだけの情報から察するに、俺は存じ上げない名前だったが南條先生は人気のある少女漫画家らしい。


「わたし、南條先生の大ファンで……今日開催されるサイン会にどうしても行きたいんです! ですが、不思議なことに会場まで辿り着けなくて……」


「不思議なことにって……えっと、ホームページを見ると会場は錦糸町駅だよね? 乗り換えアプリを使えば……あ、ほら。ここからだと乗り換えが一回あるけど、この線で三十分もかからないよ」


 そこまで難しいとは思えずに首を傾げていると、堤さんは少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。


「……普段、電車に乗ることなんてありませんので、よくわからないのです。通学や休日に遊びに行くときは車ですし……」


 ……わあ、お嬢様だ。フィクションの世界でしか見たことがなかった本物のお金持ちが今、俺の目の前にいる。


 さすが東京。驚愕と共に妙な感動を覚えてしまった。……だけど、至極当然の疑問も湧いてくる。


「だったら、今日も車で送ってもらえば良かったんじゃ?」


「だ、だって、家族や友人には内緒で行きたかったのです。わ、わたしが少女漫画を読んでいることは、知られたくないですから……」


 漫画好きなんて全然恥ずかしい趣味ではないと思うけど……事情があるのか。深くは追及しないでおこう。


「わかった。とりあえず、電車に乗ろうか。十二時からってあるけど、満員になったら終わりだろうし早く着いたほうがいいよ」


「は、はい。では、早速行きましょう」


 そう言って差し出された右手を見て、硬直した。理解が追いつかなくて、目を瞬かせる。


「えーっと……?」


「察しが悪いですよ。男の人なら自分からエスコートしてくれないと、女の子から嫌われちゃいますよ?」


 ……お嬢様っていう生き物は、こういうものなのか? それとも東京では、男女がペアになって歩くときは手を繋ぐのが普通の行為なのだろうか?


 やはり都会は田舎とはワケが違うらしい。俺は本当に来年からここで暮らしていけるのだろうか?


「小宮さん?」


 どうしよう。早く会場まで連れて行かなければ、上野に行く時間がなくなってしまう。


 だけど相手が侑里ならともかく、堤さんと手を繋ぐとなると浮気になってしまう気がしてならない。


「俺、好きな子がいるから手を繋ぐのはダメだ。はぐれるのが不安だったら、俺のこの辺を掴んでくれていいから」


 Tシャツの裾を指差すと、堤さんはハッとした顔をした。


「た、大変失礼いたしました! 小宮さんってすごく誠実な方なんですね」


 堤さんは頭を下げた。ホッとした俺は彼女を誘導するように改札へ向かって歩き出す。彼女の手は早くも俺のシャツを掴んでいた。……ベロベロに伸びるだろうな。


「それで、小宮さんは侑里さんとはいつからお付き合いされているのですか?」


 歩きながら話すにしては突拍子のない質問な気もするが、俺にとっては耳にタコができるほどにされてきた質問でもある。


「よく聞かれるんだけど、俺と侑里は付き合ってないよ。幼馴染の腐れ縁ってだけ」


「え……? そうだったんですか? ……確かに、小宮さんは侑里さんが選ぶ男の人にしては普通な気がしていましたけども」


「あっさりと納得した理由にしては、俺に無礼な気がするぞ」


 別に本気で言っているわけではなく、からかうつもりでツッコむと堤さんは「すみません」と謝ってから、


「小宮さんと侑里さんはいわゆる恋バナ、みたいなこともされないのですか?」


「普段は全然しないな。あのアホが突拍子もないことを言って、変なことに巻き込まれることはあったけど」


 昨年、あいつが興味本位で合コンに行ってみたいとか騒いだときは大変だったけれど、あれ以来侑里からはそういうイベントに参加したという話は聞かなくなった。たぶん、飽きたんだろうな。


「そうですか。でも……あの天才がどんな人を好きになり、好きな人の前でどんな顔を見せるのか、とても興味がありませんか?」


「……認めたくないけど、その気持ちはよくわかる」


 あいつは好きな男の前だとどんな顔をして、どんな言葉を発して、どんな風に笑うのか。それが気になる程度には、俺は侑里に無関心ではない。

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