第9話 黒猫の過去とカフェの秘密
「シェルさん、その首輪の宝石……」
コトハが気づいたのは、影との戦いの後、片付けをしている時だった。黒猫の首輪についている紫の宝石が、かすかに光を放っている。
「さっきから光ってるけど、大丈夫?」
シェルは一瞬、身体を硬くした。そして、ゆっくりと振り返る。
「……気づいてしまいましたか」
その声は、いつもより低く、どこか悲しげだった。
王子も手を止めて、シェルを見つめた。
「その宝石、見覚えがある……」
「当然でしょう」
シェルがため息をついた。
「これは、王宮の紋章が刻まれた『宮廷魔導医の証』ですから」
静寂が、カフェを包んだ。
コトハは息をのむ。王子の瞳が大きく見開かれた。
「まさか……シェルさんは……」
「はい」
黒猫がゆっくりと立ち上がった。その姿が、月光を浴びて輝き始める。
「私の本当の名は、シェルバーン・ナイトフォール。かつて王宮に仕えた、宮廷魔導医でした」
光が収まると、そこには黒猫の姿はなかった。
いや、正確には——
黒猫の影が床に長く伸びて、その中から人の形が立ち上がっていた。
でも、完全な人間の姿ではない。半分は人、半分は影のような、不思議な姿だった。
「これが、今の私の限界です」
シェルバーンの声は、苦しそうだった。
「自ら望んで、人の姿を捨てました。王妃様を……ユアン様のお母様を救えなかった罪を背負って」
王子の身体が、小さく震えた。
「母上を……知っていたの?」
「知っていたどころではありません」
シェルバーンの瞳に、深い悲しみが宿った。
「王妃様の主治医でした。あの方の『心の病』を治療していたのです」
コトハは、そっと王子の手を握った。王子の手は、氷のように冷たかった。
「でも、私は失敗した」
シェルバーンが続ける。
「王妃様の心の病は、普通の病ではなかった。愛する人を失った悲しみが、感情そのものを蝕んでいったのです」
「愛する人?」
「ユアン様のお父様です。戦で亡くなられて……王妃様は深い悲しみに沈みました」
王子の瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「そして、ある日……」
シェルバーンの声が震える。
「王妃様は、すべての感情を失いました。ユアン様への愛情さえも」
ガシャン
王子が握っていたカップが、床に落ちて割れた。
「だから……だから母上は、僕を見ても何も言わなくなったの?」
「申し訳ありません」
シェルバーンが深く頭を下げた。
「私の力不足で、王妃様を救えなかった。そして……」
「そして?」
「王妃様は、感情を失って三日後に……」
言葉は最後まで紡がれなかった。でも、誰もがその先を理解した。
72時間。
王子と同じ運命を、母親も辿ったのだ。
「それで、このカフェを?」
コトハが静かに尋ねた。
「はい」
シェルバーンがうなずく。
「二度と同じ悲劇を繰り返さないために。感情を失った人を救うために、私はこの魔法カフェを作りました」
「でも、なぜ黒猫の姿に?」
「贖罪です」
シェルバーンの影が揺らめいた。
「人として王妃様を救えなかった私に、人の姿でいる資格はない。でも、せめて導き手として……」
その時、カフェの壁に飾られた絵画が光り始めた。
一枚の絵の中から、美しい女性が微笑んでいる。
「母上……!」
王子が駆け寄った。
絵の中の王妃は、優しい笑顔を浮かべていた。その手には、小さなラベンダーの花束。
「王妃様は、よくおっしゃっていました」
シェルバーンが絵を見上げる。
「『感情は時に辛いけれど、それでも大切なもの。だって、愛する人を想う気持ちまで消えてしまうのは、悲しすぎるから』と」
コトハは、テーブルの上のラベンダークッキーを手に取った。
「これを作ったのは……」
「王妃様のレシピです」
シェルバーンが微笑んだ。それは、初めて見る心からの笑顔だった。
「記憶を安定させる効果がある。王妃様は、大切な思い出を守るために、このクッキーをよく作っていました」
王子がクッキーを一口かじった。
瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。
——幼い自分を抱きしめる母の腕。
——子守唄を歌う優しい声。
——「大好きよ、ユアン」という囁き。
「思い出した……」
王子の声が震えた。
「母上は、僕を愛してくれていた。病気になる前は、本当に……」
「そうです」
シェルバーンがうなずく。
「王妃様の愛は、本物でした。だからこそ、ユアン様も感情を封印してしまった。愛する人を失う痛みを、知っていたから」
王子の透明度が、さらに回復していく。
15%……10%……
もう少しで、完全に元に戻る。
「シェルバーン」
王子が顔を上げた。その瞳に、強い決意が宿っている。
「母上を救えなかったことを、あなたのせいにはしません」
「ユアン様……」
「でも、約束してください」
王子はシェルバーンをまっすぐ見つめた。
「今度こそ、誰も失わないって」
シェルバーンの影が、ゆっくりと黒猫の姿に戻っていく。
「はい。この命に代えても」
時計が、残り8時間を示していた。
でも、希望の光は消えていない。
「黒猫さん、ただ者じゃなかった……!」
読者の皆さんも驚いたことでしょう。
でも、過去がどんなに辛くても、贖罪の道を選んだシェルバーン。
その優しさが、今、王子を救おうとしています。
カフェの秘密は、愛と悲しみと希望の物語でした。
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