第8話 感情を食べる影



真夜中近く。


カフェの明かりが、暖かく森を照らしている。


コトハは新作の苺ムースに、最後の仕上げをしていた。ふわふわのピンク色のムースの上に、真っ赤な苺を飾る。


「きれいでしょ? 春の庭みたい」


王子が隣でうなずいた。昨日よりも、表情が豊かになっている。透明度も、30%くらいまで回復していた。


でも——


「時間が、もうすぐ60時間」


シェルが時計を見ながらつぶやいた。


「残り、12時間ですね」


重い沈黙が流れる。


その時だった。


スッ……


カフェの照明が、一瞬揺らいだ。


「あれ?」


コトハが顔を上げる。でも、すぐに元に戻った。


「気のせいかな……」


スッ……スッ……


今度ははっきりとわかった。照明が明滅している。いや、違う。


何かが、光を遮っているんだ。


「これは……!」


シェルの毛が逆立った。


「みんな、下がって!」


その瞬間、カフェの壁に巨大な影が広がった。


それは人の形をしていたが、人ではなかった。


真っ黒で、輪郭がぼやけていて、まるで闇そのものが動いているような——


『見つけた……』


影が、声にならない声で囁いた。その声は直接頭の中に響いてくる。


『美味しそうな感情……特に、その笑顔……』


影が指差したのは、王子だった。


「何者だ!」


シェルが前に出る。


「ここは魔法カフェ。招かれざる客は入れないはず!」


『招かれた……呼ばれた……強い感情に……』


影がゆらゆらと揺れる。そして、恐ろしいことを言った。


『昨日の怒り……美味しかった……もっと……もっと欲しい……』


コトハは理解した。昨日の感情の暴走。あの激しい怒りの力が、この影を呼び寄せたんだ。


「王子の感情を狙ってるの!?」


『そう……特に、やっと戻りかけた笑顔……一番美味しい……』


影が王子に向かって進み始めた。床を這うように、壁を伝うように、不気味な動きで近づいてくる。


「やめて!」


コトハが王子の前に立ちはだかった。


「王子の笑顔は、渡さない!」


『邪魔……』


影がコトハに触れた瞬間——


ぞわっ


全身から、何かが吸い取られる感覚。


楽しかった記憶、嬉しかった瞬間、それらがすべて色褪せていく。


「あ……」


コトハの膝が崩れた。心が空っぽになっていく。何も感じない。何も思い出せない。


「コトハ!」


王子が叫んだ。その瞬間、彼の顔に浮かんでいたかすかな笑みが、すうっと消えていく。


『美味しい……』


影が満足そうに震えた。


『でも、足りない……もっと……すべての感情を……』


「させるか!」


シェルが呪文を唱えた。青い光の障壁が影の前に現れる。でも——


バリン!


ガラスが割れるような音とともに、障壁は粉々に砕けた。


「なんて力だ……感情を食べて、強くなっている!」


絶体絶命だった。


王子は笑顔を失い、コトハは立ち上がる気力もない。


このままでは、二人とも感情をすべて奪われてしまう——


その時、コトハの目に入ったのは、テーブルの上の苺ムースだった。


ピンク色のムースが、まだそこで輝いている。


——感情を再生する力。


スイーツの効果を思い出した瞬間、コトハの中で小さな火が灯った。


「王子……」


震える声で呼びかける。


「ムースを……食べて……」


でも王子は動かない。笑顔を奪われて、また無表情に戻ってしまっている。


ダメだ。このままじゃ——


「違う」


コトハは気づいた。


「私が……私が先に食べるんだ」


震える手で、スプーンを握る。苺ムースをすくって、口に運んだ。


ふわっ


甘酸っぱい苺の香りが広がる。と同時に、胸の奥で何かが動き始めた。


消えかけていた記憶が、少しずつ色を取り戻していく。


——初めて自転車に乗れた日。


——誕生日にもらったプレゼント。


——お母さんの笑顔。


感情が、ゆっくりと再生されていく。


「思い出した……」


コトハが立ち上がった。


「私、こんなにたくさんの幸せを持ってたんだ」


『なぜ……食べられた感情が戻るなど……』


影が動揺している。


「それがスイーツの力よ!」


コトハは王子にムースを差し出した。


「王子、お願い。食べて。あなたの笑顔を取り戻して!」


王子がゆっくりと顔を上げた。無表情な瞳が、ムースを見つめる。


そして——


一口。


ただ一口だけ、ムースを口に含んだ。


変化は劇的だった。


王子の瞳に光が戻り、頬に赤みが差した。そして、小さく、でも確かに微笑んだ。


「美味しい……」


その笑顔から、ピンク色の光が溢れ出した。


光は影に触れると、ジュッと音を立てて影を溶かし始める。


『ぎゃああああ! まぶしい! この光は何だ!』


「感情の光よ」


シェルが言った。


「闇が感情を食べるなら、感情の光は闇を浄化する」


影は苦しそうに身をよじった。そして、断末魔の叫びとともに——


『覚えておけ……感情を持つ限り……我らはまた来る……』


シュウウウウ……


影は煙のように消えていった。


カフェに、静寂が戻る。


「終わった……」


コトハががくりと座り込んだ。王子が慌てて支える。


「大丈夫?」


「うん。ちょっと疲れただけ」


二人は顔を見合わせて、ほっと息をついた。


「でも、怖かった。感情を食べる影なんて……」


「感情には、光と闇の両面がある」


シェルが説明した。


「強い感情は時として、望まないものを引き寄せることも。これからは、もっと気をつけなければ」


王子が苺ムースの残りを見つめていた。


「でも、このムースのおかげで助かった。コトハの作るスイーツは、本当にすごい」


「えへへ」


コトハが照れ笑いを浮かべた。


その時、王子の身体がかすかに光った。


透明度が、さらに回復している。25%……いや、20%くらいまで。


「王子の笑顔、戻ってよかった」


でも、時計は無情に時を刻んでいた。


残り、10時間。


「王子の笑顔、返して……!!」


きっと読者の皆さんも、そう叫びたくなったことでしょう。


大切な感情を奪われる恐怖。


でも、それを取り戻す方法もある。


苺ムースが教えてくれました。


失った感情は、必ず再生できるって。

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