第10話 王子の記憶、ひとひら
「ミルフィーユって、『千枚の葉』って意味なんだって」
コトハが、薄いパイ生地を丁寧に重ねながら言った。カスタードクリームと苺を挟んで、また生地を重ねる。その繰り返し。
「千枚も重なってるの?」
王子が不思議そうに覗き込む。
「実際は千枚じゃないけどね。でも、たくさんの層が重なって、一つのお菓子になるの」
最後の仕上げに、粉砂糖を振りかける。雪のように白い粉が、ミルフィーユを優しく包んだ。
「記憶も、きっとそう」
コトハが微笑む。
「いろんな思い出が重なって、今の私たちを作ってる」
王子は無言でミルフィーユを見つめていた。その瞳の奥で、何かが揺れている。
残り時間は、あと6時間。
もう夜明けが近い。でも、王子の透明度は10%で止まったまま。最後の何かが、足りない。
「さあ、召し上がれ」
コトハが皿を差し出した。
王子がフォークでミルフィーユを切ると、サクッという小気味良い音がした。層になったパイ生地が、きれいに割れる。
一口食べた瞬間——
王子の身体が、強く光った。
「これは……!」
突然、王子の目の前に映像が広がり始めた。
それは、記憶の断片だった。
——王宮の庭園。
白いテーブルに、ティーセットが並んでいる。
そして、そこには——
「母上……」
美しい女性が、優しく微笑んでいた。その隣には、幼い王子。二人でお茶会をしている。
『ユアン、見て。今日は特別なお菓子を用意したの』
母親の声が、記憶の中から響いてくる。
『ミルフィーユよ。私の故郷の味』
幼い王子が、大きな口でミルフィーユにかぶりつく。クリームが口の周りについて、母親が優しく拭き取ってくれる。
『美味しい?』
『うん! すごく美味しい!』
『よかった。実はね、このミルフィーユには秘密があるの』
母親が、いたずらっぽく微笑む。
『このカスタードクリームには、特別な材料が入っているの。愛情という名の……』
映像が途切れた。
王子は現実に引き戻された。でも、頬には涙が伝っていた。
「母上も……ミルフィーユを……」
「きっと、同じレシピよ」
シェルが静かに言った。
「王妃様は、よくこのカフェにいらしていました。感情の研究をするために」
「研究?」
「はい。実は王妃様は、感情魔法の研究者でもあったのです」
新たな事実に、コトハも驚いた。
王子は震える手で、もう一口ミルフィーユを食べた。
また、新しい記憶が蘇る。
——王宮の図書室。
母親が、厚い本に向かって何かを書いている。
『母上、何を書いているの?』
『大切なことよ、ユアン』
母親が振り返る。その瞳には、深い憂いが宿っていた。
『もし、いつか誰かが感情を失ってしまったら。その人を救う方法を、残しておきたいの』
『どうして?』
『だって……』
母親が幼い王子を抱きしめる。
『大切な人の笑顔が消えてしまうなんて、悲しすぎるでしょう?』
記憶が、また途切れた。
「母上は……知っていたんだ」
王子の声が震えた。
「自分がいつか、感情を失うかもしれないって」
「王妃様は、予知の力もお持ちでした」
シェルが説明する。
「だから、このカフェの設立にも協力してくださった。未来の誰かを救うために」
コトハは気づいた。
すべては繋がっている。
王妃の想い、シェルバーンの贖罪、そしてこのカフェ。
すべては、王子を救うために——
「でも、なぜ僕は感情を封印したの?」
王子が最後の一口を食べた。
そして、最も重要な記憶が蘇った。
——王妃の病室。
感情を失い、ベッドに横たわる母親。
その手を握る、幼い王子。
『母上、僕だよ。ユアンだよ』
でも、母親の瞳は虚ろで、何も映していない。
『お願い、僕を見て。僕のこと、思い出して』
返事はない。
ただ、規則正しい呼吸の音だけ。
『僕が悪い子だったから? だから母上は、僕のことを忘れちゃったの?』
幼い王子の涙が、母親の手に落ちる。
『違うよ』
突然、部屋に声が響いた。
シェルバーンだった。人間の姿の。
『王妃様は、君を忘れたんじゃない。感じることができなくなっただけだ』
『感じるって、何?』
『愛すること。喜ぶこと。悲しむこと。すべての感情だよ』
幼い王子は、じっと考えた。
そして——
『じゃあ、僕も感情なんていらない』
『え?』
『だって、母上みたいに大切な人を忘れるくらいなら、最初から何も感じない方がいい』
その瞬間、王子の胸から光が溢れ出した。
感情を封印する、強力な魔法。
子供とは思えない、強い意志の力。
『やめなさい! 自分で呪いをかけるなんて!』
でも、もう遅かった。
王子の瞳から、光が消えていく——
記憶が終わった。
現実のカフェで、王子は膝をついていた。
「思い出した……全部……」
コトハが駆け寄る。
「王子……」
「僕は、自分で選んだんだ。感情を捨てることを」
王子の声は、とても小さかった。
「母上を失う悲しみに耐えられなくて。誰かを愛して、また失うのが怖くて」
でも、その瞬間——
王子の身体から、最後の透明な部分が消えていった。
完全に、元の姿に戻ったのだ。
「でも、今は違う」
王子が顔を上げた。その瞳には、強い光が宿っている。
「コトハやシェルと出会って、わかった。感情があるから、人と繋がれる。辛いこともあるけど、それ以上に大切なものがある」
ミルフィーユの皿が、柔らかな光を放っていた。
千枚の記憶が重なって、一つの真実にたどり着いた。
愛は、決して消えない。
形を変えても、必ず受け継がれていく。
「母の記憶って、泣く……やばい……」
きっと読者の皆さんも、涙を流していることでしょう。
でも、これは悲しい物語じゃない。
愛が、時を超えて王子を救った物語。
タイムリミットまで、あと4時間。
でも、王子はもう大丈夫。
本当の自分を、取り戻したから。
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