第2話 世を忍ぶ仮の話

 会社員の朝は早い。


 したくもないメイクをするためには、家を出る三十分前には起きていなければいけない。

 それでも、三十分前に起きれば間に合うのには訳がある……。


「ほら、朝だぞ! 凛音りね、とっとと起きろっ!」

 布団を引き剥がしたのは、金色の髪を揺らす麗しき青年。

「あと五分~」

 情けない声で布団に帰ろうとする凛音を叱咤する。

「食事が冷めるっ。早くしろっ」

 布団の上から凛音を叩くと、部屋を出ていった。

「……も~、もうちょっと優しく起こしてよぉ、ディーノ~」


 市原凛音。それがポニー・レイン=サンシャインの、世を忍ぶ仮の姿(?)である。

 そして金髪の麗しき青年は、ポニーの使い魔であるディーノだ。


 凛音はもぞもぞと起き出し、大きく伸びをすると洗面所へ向かった。顔を洗いなんとか目を覚ますと、用意された食事を摂る。


「わー、目玉焼き、今日も完璧!」

 ディーノの作る目玉焼きは、いつだって最高だった。硬すぎず、柔らかすぎない半熟加減。コーンポタージュに口を付けると、猫舌の凛音に合わせたちょうどいい熱さ。パンはカリッと焼かれており、上にチーズが乗っている。

「ディーノはいつでも嫁に行けるわね!」

「またそんなことを……。ジェンダーフリーって言葉、知らないのか?」

「あ、そうだった」

 えへへ、と舌を出すも、さほど気にした様子もない。


 テレビでは、またどこぞの国で戦争をしているニュースが流れる。

「……なんだかいたたまれないわ」

「あん? なにっ?」

 台所でフライパンを洗いながら、ディーノが訊ねる。

「私の力って、アモールと戦うことでしか使えないじゃない? 世界はこんなにも混沌としてるのに、なにも出来ないんだもん」

「……なにも出来ないってこたないだろ? 声を上げることも、募金をすることも、小さなことでも“行動を起こす”ことは出来るし、実際、そうしてるじゃねぇか。まぁ、それを自己満足だって言うなら、それはそうなのかもしれねぇんだけど」

「まぁ……ね」


 自分はなんて無力なのだろう、と思うことが多々ある。戦争反対を訴えたり、募金したり、その程度のことしかできないのが現状だ。国同士の争いは、正義の扱いも互いの国によって変わるから、一概に正義を語ることは難しい。


「そういえばさ、ディーノ」

「なに?」

「私、誕生日が来たらどうなるの?」

 三十路女は魔法少女から強制引退だ。そうなれば、こんな風にディーノと暮らすこともなくなるということ。


「私、ディーノのいない生活なんて考えられないんだけど」

 呟き、目玉焼きを口に運ぶ。

「おい、凛音、それって……」

 ディーノが少し戸惑ったように聞き返した次の瞬間、

「美味しい~! ディーノの作るごはん、やっぱ最高!」

 と、右手を上げる。


「……んなことだろうとは思ったけどよ。ほら、とっとと支度しろ、このウスノロ!」

「えーっ、ディーノひどぉい! 言われなくても急ぎますぅ!」

 残っていたパンとコーンスープを口の中に流し込み、もぐもぐと咀嚼しながら寝室へ。手早く着替えると、鏡に向かい簡単な化粧をする。社会人として最低限の化粧は必須だが、それ以上のことをしようと思わなければ、さほど手間はかからない。

「よし、オッケー!」


 鏡の中にいるのは、とうに旬を過ぎた、年相応の女性の姿だった。


*****


「おはようございます」

「おはよう~」


 会社では、営業事務をしている。短大を出て、一度は別の職業に就いた凛音だったが、あまりに残業が多く、魔法少女に支障が出るので辞めたのだ。今の職場に来てからはそこまで過酷な残業もないため、居心地はよかった。


「先輩、おはようございまぁす」

 ひときわ可愛らしい声で挨拶をしてきたのは、後輩の福本あん。彼女も中途採用で入ってきたクチで、たまたま凛音が教育係ということで仕事を教えたのだが、妙に懐かれているのだった。


「おはよう。週末は楽しかった?」

 彼氏とキャンプに行くようなことを言っていたので、話を振ってみた。すると杏の顔がみるみる歪み、だらしのない表情へと変わる。

「えへへへ~。聞いてくださいよぉ~」

 杏の惚気は長い。タイミングを間違ったか、と後悔していると、凛音の後ろから

「はいはい、私語は休み時間にな」

 と声が飛ぶ。


「あ、片山さん、おはようございます」

「片山先輩、おはようございますっ」

「おはよ」


 片山大吾。凛音の三つ年上で、営業部の主任。今は片山の抱える仕事を凛音と杏でサポートしているので、この三人は、いわばチームである。


「昼過ぎに、先方との打ち合わせが入ったんだ。市原さん、悪いんだけど資料纏めてくれる? メールしてある」

「わかりました。早めに出しますね」

「うん、助かる」

 ニコッと笑い、背を向ける片山。その後ろ姿を見ながら杏が言った。

「片山先輩、いつまで寝かしておく気なんだろ。早く告ればいいのに……」

「ん? なんの話?」

 凛音が聞き返すと、杏は肩を竦め、

「……いえ、世の中って、まだまだ解明されない謎が多いな、って思っただけです」

「は?」

「私の中では当たり前なことでも、余所では当て嵌まらなかったりするじゃないですか」

「……ええ、そうね」

「そういう、噛み合わないこと一つ一つを解明していったら、世界の謎って全部解けるんですかねぇ?」

「……はぁ?」

 杏の言っていることの意味が分からず、凛音は大きく首を傾げる。


「なんでもないです。先輩、早く片山先輩の案件、やっちゃいましょ!」

 引き止めていたはずの杏に、何故か急かされる形でデスクへと向かう凛音だった。


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