第29話 弓を引く覚悟

 空気がやわらかくなり、風にも冷たさよりぬくもりが混じり始めていた。

 朝の空気は少し湿り気を帯び、地面から立ち上る土の匂いに命の気配が宿る。


 稲夫は村はずれに立ち、弓を構えた。

 まだ夜露が乾かぬうちから、的代わりの木を狙って矢を放つ。


 ――ヒュン。


 弦がうなり、矢が飛ぶ。木の幹に突き刺さり、乾いた音を立てた。


「……よし!当たるようになってきたな!……けど」


 指を見下ろす。赤く腫れた皮膚がひりつく。


「やっぱりこの弓、弦がクソ硬ぇ!指がもげそうになる……!」


 ぼやきながら、腫れた指先を摩る。

 タケルから譲り受けたこの弓を、稲夫は暇を見つけては練習していた。


 最初の頃は弦を引くだけで精いっぱいで、狙いなどつける余裕はなかった。だが今では、どうにか狙った的には射れるようになった。


 それでも――動かぬ木だから当たるだけの話だ。

 もし、相手が人間だったら。自分に向かって武器を構える敵だったら。


(……本当に、引けるのか?この弓を――人に向けて)


 思考の底に、重く沈むような不安があった。

 タケルたちは他の集落との争いの末にこの地へ逃げてきた。

 平穏な今が続く保証など、どこにもない。

 その時、自分は村を、皆を守るために弓を放てるのか。


 そんな考えを振り払うように、後ろから声がかかった。


「稲夫様、随分とお早いのですね」


 振り返ると、鍬を肩に担いだツチハルが立っていた。

 朝靄に包まれた中、額にはすでに汗が光っている。


「ツチハルさんこそ、こんな時間に……堀を掘りに?」


「それもあります。ですが今日は、畑の種まきをしようと思いまして」


「種まきか。いい季節ですね。俺も手伝いますよ」


 稲夫が笑みを浮かべると、ツチハルは少し驚き、やがて穏やかに頷いた。


「それは心強い。ぜひ、お願いします」


 ※※※


 畑は、すでに何度も鍬が入れられた形跡があり、土はふかふかと柔らかい。

 陽が昇るにつれて、湿った香りが立ちのぼる。


「土の状態はいいですね。緑肥もよく分解されてる。これなら種をまいても大丈夫そうです」


「それを聞いて安心しました。では、早速撒いていきましょう」


 ツチハルが胸をなで下ろし、腰の袋から種を取り出そうとする。

 だが稲夫が片手を上げて制した。


「あ、種を撒く前に畝(うね)を作りましょう」


「うね、ですか?それはいったい何でしょうか?」


「畝って言うのは、種を撒くために盛り上げた土の事です。こうやって――」


 稲夫は鍬を借り、土を掬いながら両側へ寄せていく。

 やがて細い筋のように盛り上がった列が幾つも並び、間には溝ができていった。


「これで雨が降っても水が流れやすくなります。根が腐りにくいし、作業もしやすいですよ」


 ツチハルは目を丸くし、やがて感嘆の息をもらす。


「なるほど……この畝というものには、そんな意味があるのですね。私の村では焼き畑ばかりだったので、初めて知りました。」


「焼き畑……あれは最初の一年は豊作になりますけど、すぐに地力が落ちて、長くは続けられないんですよね」


「なるほど、確かに頻繁に畑の場所を変えていた記憶があります」


「それに焼き畑は準備が大変だし、一歩間違えたら村まで焼けかねないですからね。今はやめておきましょう」


 そう言って笑うと、二人は肩を並べて作業を続けた。


 アワ、ヒエ、カブの種を指先でまき、そっと土をかけていく。

 ひとつひとつの動作が慎重で、同時に穏やかだった。

 風がやわらかく頬を撫で、春の匂いが鼻をくすぐる。


 作業を終えた頃には、畑は整然とした畝が並び、陽光に照らされてやわらかく輝いていた。


「これでひとまず完了ですね」


 稲夫が汗を拭うと、ツチハルも深く息を吐いた。

 鍬を地面に立てかけ、腰を伸ばす。その動作にはわずかな疲労がにじむ。


「お疲れ様です。思っていたより、体にきますね……」


「だから少し休みましょう。まだ朝ですし」


 稲夫が笑いかけるが、ツチハルはゆっくり首を振った。


「お気遣いありがとうございます。しかし、戦士長が掘りを掘れない今、私がやらねばなりません」


 鍬の柄を握る手が、静かに強くなる。


「私は戦士長のように強くはありません。戦って誰かを守ることはできない。ですが、堀を掘って外から守れるなら掘ります。畑を耕して飢えを防げるなら、いくらでも耕します。それが……今の私にできる、戦いなのです」


 穏やかな声の奥に、揺るぎない意志が宿っていた。


 稲夫は言葉を失う。


 ——自分はどうだ。


(皆が、それぞれのやり方で村を守ろうと必死なのに……それなのに、俺は弓を引く覚悟ができていない)


「では、私はこれで」


 ツチハルが一礼し、歩き出す。

 その背に向かって、稲夫は思わず声をかけた。


「待ってください。俺も手伝いますよ。あのタケルの分まで一人で掘るのは大変でしょう?」


 ツチハルは一瞬驚き、それから小さく笑った。


「……確かに。戦士長の分まで私ひとりでは厳しいですね。助かります、稲夫様」


 二人は並んで鍬を手に取り、堀の方へと向かう。

 春風が吹き抜け、掘り返された土の匂いが漂った。


(もしこの村に敵が現れたら——その時、迷わず弓を引ける自分でいたい)


 稲夫は鍬を振るう手に、少しだけ力がこもった。

――――

※畝(うね)とは、畑の土を細く盛り上げた部分のことです。

雨の水はけを良くし、根腐れを防ぐために作られます。

また、日当たりや通気を良くする効果もあります。

作物ごとに高さや間隔を変えることで、よりよい環境を整えることができます。

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