第三節 四月下旬

第28話 調教のはじまり

 村はずれの林に稲夫が足を運ぶと、そこにはタケルと灰色の狼の姿があった。


 狼は縄を首に通され、木の幹に繋がれている。体は地にべったりと伏せられており、警戒している様には見えない。

 まるで全てに無関心と読み取れるような態度だった。


「どうだタケル、調教は進んでるか?」


 稲夫が声をかけると、タケルは難しい顔でこちらを振り返った。


「正直に申せば……まるで手応えがありません」


 その声色には苛立ちと諦観が混じっている。


「猟犬として育てるには、主従関係を築かねばなりません。しかし、こいつは俺を“敵”とも“主”とも見ていない。ただそこに居座っているだけです」


 稲夫は狼を見やる。灰色の毛並みが陽に光り、風に揺れる。だがその目は、タケルの存在を一顧だにしない。


「これは……時間がかかりそうだな。俺に手伝えることはあるか?」


 タケルはかぶりを振った。


「いえ。敵意はないでしょうが、危険なことには変わりません。ここは俺が責任を持ちます」


 真剣な声音で言い切り、干し肉を取り出して狼の前に掲げる。


「来い!」


 力強く命じる。だが、狼は首ひとつ動かさず、地に腹をつけたまま眠そうに大きく口を開きあくびをした。

 干し肉にも、タケルにも――何ひとつ興味を示さない。


「稲夫様!タケルさん!何してるの?」


 声を弾ませてヒナタがロウを連れて駆け寄ってきた。

 ロウは眠そうに目をこすり、稲夫が着せた作業着の大きな袖をヒナタに引かれて、半ば引きずられるように歩いてきた。


「狼の調教だよ。まぁ、難航してるけど」


 稲夫が肩をすくめて答えると、タケルは再び干し肉を掲げた。


「来い!」


 しかし、狼は目もくれず、むしろ顔を前脚の上に伏せてしまう。「興味ないです」と言わんばかりだった。


「……」


 タケルは黙り込む。その無表情の奥で、眉間にはぴきりと青筋が浮かんでいた。

 干し肉を握る手が強張る。


 ――メキメキッ。


 肉から聞いたことのない音が響いた。


「タケル、落ち着け!顔が怖いし、肉から悲鳴が聞こえてるぞ!」


 稲夫が慌てて止めると、タケルは小さく咳払いをして握力を緩めた。


「……失礼。少し力が入りました」


 その時――。


「がぁうあ」


 ロウが狼の鳴き声のような声で鳴いた。

 すると先ほどまで腹を地につけて横になっていた狼がむくりと起き上がり、ゆったりロウに歩み寄ってくる。

 そして、狼はロウの髪を毛づくろいをするかの様に噛むように整える。

 その光景はまるで、子をあやす親のような仕草だった。


「……やっぱり、ロウとあの狼には何か特別な絆があるのかもな」


 稲夫が呟くと、ヒナタがひらめいたように手を叩いた。


「そうだ!タケルさんもロウの真似をすれば、狼さんも言うこと聞いてくれるんじゃないかな!」


「いや、それは……流石に難しいだろ」


 稲夫は苦笑しながらも止めようとした。


 だが、タケルは一瞬だけ困惑した表情を浮かべた後、観念したように狼へ向き直った。


「……がぁうあ」


 ぎこちなく、タケルがロウの声を真似る。


 その瞬間、毛づくろいしていたロウと狼は、ピタリと動きを止めた。

 二対の黄金の瞳と一対の黒い瞳が、同時にタケルへと向けられる。


 ――静寂。


 だが、狼は何事もなかったかのようにタケルから視線を外す。

 そして再びロウの毛づくろいを始めた。


「……この畜生が……」


 タケルの声は低く、ドスが利いていた。握りしめられた干し肉は、バキバキと音を立てて無惨に砕け散る。


「ちょ、落ち着けって!さっき自分で“信頼関係が大事”って言ったばかりだろ!」


 稲夫が慌てて抑えると、タケルははっとして目を閉じる。

 そして深く、深く息を吐いた。


「……すみません。少し取り乱しました」


 そう言って姿勢を正すと、再び狼の方を見た。

 ちょうどその時、毛づくろいを終えた狼が、大きなあくびをして腹を地面に伏せた。


「……どうやら、俺を“ロウと同じ縄張りにいるだけの何か”としか見ていないようだな」


 タケルはリードをしっかり握り、力強く言い放った。


「いいだろう。ならば、主従関係をわからせてやる。来い!」


 狼の縄を引き、堂々と歩き出す。


 しかし、狼は一歩も動かない。腹を地につけたまま、ずるずると引きずられていく。

 地面に引き痕を残しながら、狼は眠そうに口を開け、あくびを繰り返す。


 稲夫は頭を抱えた。


「……タケル、大変だろうけど、頑張れ」


「がんばれー!」


 ヒナタは元気よく声を張り上げ、ロウも小さな声で「がぅ」と真似をした。


 ——狼を仲間にする道のりは、まだまだ険しそうだ。

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