Chapter-04 熱き誓いをその身に宿して(2)

 黒の紳士がスタート直後、爆発的な脚で馬郡を突き抜け、ハナを奪う。


 その展開は皐月賞と同じ、二度目だ。大きく遅れをとってしまった日本ダービーとは異なり、ロジェールマーニュという競走馬が持つ本来の戦法で、この「最も強い馬が勝つ」菊花賞に挑む。

 馬券を握りしめる一人の男はスタンドの最前列で瞬きさえ忘れて、馬郡を突き抜け後続を引き離して走り続けるロジェールマーニュを凝視していた。



 単勝人気三・六倍、一番人気。



 紳士の名に相応しい優雅な勝利を、ロジェールマーニュの二冠達成を、女性騎手初の菊花賞制覇を、皆が待ち望む。そのプレッシャーをものともせずに、まるで何の問題もない、これが芝の上での紳士の流儀とでも言うように悠々とハナを駆けている。



 ロジェールマーニュは強い馬だ。

 そして何度もそのロジェールマーニュとぶつかる、フジサワコネクトも同様に強い馬だとスタンドにいる者たちは思う。どちらが勝ってもおかしくない、どちらが負けてもドラマになる。


 皐月賞をレコードで逃げ切ったロジェールマーニュも、史上最強の紅一点──ダービー馬として挑み続けるフジサワコネクトも、このクラシックロードの終着点にいる馬たちには皆──その馬体に、その心に唯一無二のドラマを刻んでいる。



 勝負の世界は残酷だ。ただ一頭のみの勝者の下には敗者の残骸が転がっており、また勝者を目指すものには剣山の如き試練が与えられる。強い馬がレースの出走を回避すれば逃げたと罵られ、負ければ馬以外にも騎手へその批判は向かう。


 白綾后子が、そうであったように。


 向こう正面から一周目のホームストレッチ、その先陣を切ったロジェールマーニュは一分を切る時計を出した。ハナを進むロジェールマーニュのスピードがいかに化け物じみているかを教える数字である。


 この京都競馬場・Aコースのコースレコードは三分丁度だが、恐らくこのままのペースでレースが進み続ければ確実にロジェールマーニュはコースレコードと菊花賞のレコードを更新してしまう。

 すでに後続の馬郡からは六馬身ほどの差をつけて走り抜けるロジェールマーニュは、全く周辺の馬など気にも留めず、ひたすらに己の心地よいスピードに身を委ねているように思えた。



(信じられねえ。……后子──あいつ、本当に…………)


 騎手がいないのでは、と錯覚するほどに自由に走るロジェールマーニュは、あまりにも優雅だった。優雅で自由だが、走ることにおいて一切の無駄がない。

 恐ろしいのはそれだけではない。ロジェールマーニュは──全くスピードが落ちない。落ちるどころか、レース中盤からさらに加速している。二周目へ入り内回りコースへ差し掛かるが、スピードは衰えを知らない。


 コーナーリングにも一切の無駄がなく、ひたすらにスピードを追い求めて走り抜けていく。

 芝を蹴り飛ばす黒い脚は先ほどよりも強く────強く、速く、駆ける。


 馬は最高時速が七〇キロメートルまで到達することもある生き物だが、ロジェールマーニュは確実に七〇キロどころか八〇キロ近い速度で走っているはずだ。そのロジェールマーニュに体を沿わせ、微動だにしない。姿勢が一切変わらない。鞭を取り出すときぐらいしか、鞍上の白綾后子は動かない。

 正確には、〝動いているように見えない〟のだが。最小限の動きで最大限に無駄をなくして馬を導いているのだ。


 馬たちは内コーナーを回って直線コースへ向かってくる。先頭は相変わらずロジェールマーニュのまま。このまま逃げ切るのか。


 皆がそう思った。

 菊花賞で戴冠するのはロジェールマーニュで決まりだと、誰もが思った。



 だが。────その馬は、来る。


 背後から土を踏みつける剛烈な足音。ロジェールマーニュの耳は正確にその音を拾う。銀色の馬体が、いつの間にか真横にいる。鉄骨娘の襲来。


 いつ? いつ、追いついた? ターフビジョンには映っていなかった。全くカメラが追えていなかった。だが気づいた時には、フジサワコネクトはロジェールマーニュに追いつき真横にピタリとつけている。最終コーナーを駆け抜け直線へ入る馬たちの先頭を引っ張るのはロジェールマーニュとフジサワコネクトの二頭。見合ったままどちらも一歩も譲らない。


 四〇四メートルの直線コース。数秒で決着のつく最後の戦い。

 先に前へ出たのは────



『────フジサワコネクトがロジェールマーニュの前へ!! このまま一気にちぎるか!? フジサワコネクト菊花賞Ⅴなるか、それともここからロジェールマーニュが差し返すのか!? 後続の馬たちも迫るが二頭の圧倒的な速度に追いつけない!! 追いすがる三番手はナヴィアヴェラ、四番手にはミナミノテイオー!! いずれも二頭からは三馬身近く離されている!!

 前二頭の鍔迫り合いは続いている!! ロジェールマーニュの二冠となるか、鉄骨娘が七〇年ぶりに牝馬Vとなるか!? 一歩も譲らない熾烈な叩きあいだ!!』



 強い意志の宿る銀の脚が、芝を蹴り飛ばす。残り二〇〇メートル。

 フジサワコネクトは半馬身ほどロジェールマーニュにリードをとっていた。大歓声がハナを進む二頭に、後続の馬たちに浴びせられる。


 だがロジェールマーニュはフジサワコネクトを見ることは無かった。

 ただ前を見ている。

 迫るゴール板。残り僅かの直線コース。その中で、ただひたすらに前だけを見据える。もうあと数秒で決着がつくというのに、白綾は鞭の手を緩めた。まさか諦めた? 観客はその選択に驚きを隠せずその人馬を凝視する。



「ロジェ」

(わかってるよ、后子)



 誰もが────

 フジサワコネクトに軍配が上がるのだと、その瞬間まではそう思った。


 しかし残り一五〇メートル、青毛の馬体が、前へ躍り出る。当然のようにフジサワコネクトを抜き去って行く。半馬身、一馬身────二馬身。フジサワコネクトの銀色を抜き去って、黒い閃光がゴール板を最初に駆け抜けた。




 ターフビジョンに表示される時計には、コースレコードを二秒近く更新する化け物じみた数字が刻まれている。


 決着は二馬身差。一度かの紳士の影を踏んだフジサワコネクトでさえ、彼を超えることは叶わない圧倒的な強さを見せつけての勝利。


 新たな菊花賞馬の誕生に沸き立つスタンドで、男は馬券を握りしめたまま一人涙をぬぐう。


 不格好な馬の刺繡がある、古びたハンカチが彼の涙を吸い込んでいった。




 ✤




 影を踏んだ。勝てると思った。ダービー、菊花賞二冠を──牝馬の身ながら獲れると確信した。だが、差し返された。半馬身のリードでは足りなかった。それどころかゴールしてもまだ余力を残している。ロジェールマーニュは生粋のステイヤーなのだと今更のように認識させられた。


 圧倒的なスピードでねじ伏せられる。鞍上と共にさらに強くなるロジェールマーニュの凄まじさに、瀬川は悔しささえ覚えなかった。

 純粋に、白綾后子とロジェールマーニュの勝利に祝辞を浴びせられるほどには、何も悔しさを覚えなくなった。



「おめでとう、白綾。ロジェールマーニュ」

「いやぁ……まだ現実感があれへんけどね。……おおきに」


 ゴーグルを外して、后子は瀬川に言う。どこか照れたように笑う彼女は本当にふわふわしていて、瀬川は菊花賞制覇を達成した現実感の無さに酔っているような印象も受けた。



「せやけどさぁ、瀬川」

「? ……何だ?」

「惜しかったな。次があんで。気張りや」



「は?」と呟きかけた。心の奥で怒りの炎が燃え上がる。

 だがそれと同時に瀬川は漸く気付いた。

 あまりにも遅すぎる気づきは瀬川の心に鋭く切り込み蹂躙していく。悔しさといら立ちが入り混じったような、辛いようで苦い味が広がった。




 ✤




 皐月賞と菊花賞。二冠。后子は存外に喜ぶというよりも、安堵したような表情を浮かべていた。瀬川迅一とフジサワコネクトに勝ったからかと思ったが、そういう訳ではないらしい。


 僕は后子の指示に従ってスタンド前へ戻り、后子は鞍上でヘルメットを外して観客へ礼をした。僕もその仕草を真似してとりあえず首を下に下げる。



「ロジェお辞儀してんの? えらいやん」

(? ……まぁいいや。后子が笑顔だし)



 鳴りやまない拍手と大歓声が京都競馬場を包んでいる。僕は軽く芝を蹴ってスタンド前をうろつきながら、やって来た渚に大人しく捕まった。そのままゆっくり歩きながら周囲の記者に写真を撮られる。


 これで后子はGⅠ三連勝だ。スノーホワイトと勝ったらしい安田記念、スプリンターズステークス、そして僕の菊花賞。ヒトの関心は后子の事にも向いている。


 栄光は僕の血液にも刻まれるが、后子がこれから背負っていくものでもある。それにこの三〇〇〇メートルという距離含め、これ以上の距離なら負ける気がしない。


 后子と一緒なら、どこまででも──地の果てまででも行ける気さえする。



「ロジェ、ありがとう」

(礼には及ばないよ。僕は僕の好きに走った。むしろ、礼を述べるのは僕の方だ)

「私を騎手にしてくれてありがとう」

(……? 后子はずっと騎手でしょう)

「うん、……よく頑張ったなあ。ほんまに偉いなぁ……。ほんまに、すごいなぁ」

(次も勝つよ。后子。一緒にどこまでも行こう)


 渚に引っ張られて来た道を戻り、地下馬道を通って検量室の近くで止まる。后子が僕の身に着けていた鞍やゼッケンを外して、僕の首筋をポンポンと叩いた。


「うぐえ……后子ざぁ〜〜ん!!!!」

「渚ちゃん早い早い。まだ口取りあるよ!」

「だってえ……だってぇ~~!!」


 渚は泣きながら后子に抱き着いていた。僕の手綱を持ったままなのでちょっと引っ張られる。僕はそれに逆らわず、僕も后子へ顔を寄せた。


「すごいみんな寄ってくるやん。私磁石?」

「ごうござんぁ……」

「わかった、わかったさかい。私検量室行かなあかんて、ほら渚ちゃん笑ってやぁ」

「本当におめでとうございます……! 私……私、わだじほんどにごのじごどじででよがだぁぁあぁああ~~!!」

「おーし渚~、ロジェ、行くぞ~」


 渚の手から手綱を奪った国美が渚の首根っこ掴んで引きずっていく。后子は苦笑いでそれを見送って検量室に入っていった。僕はそこで止まって新しく手綱をつけられ、馬服と優勝レイを引っかけられる。ちょっと痒い。僕がもぞもぞと動けば国美が「かゆいな、ちょっと待てよ~」と声をかけた。国美は渚と違って一周回って落ち着いているらしい。

 僕は国美と渚に引っ張られ、ウィナーズサークルに繋がる道を歩き日の差す場所へ出た。


 外にはゼッケンを持った后子と、僕の故郷で小さい頃から見知った顔の神代がいる。僕は二人の間に割り込むようにして立ち、一度頭を軽く振って目にかかる鬣をどけた。


 そっと僕の首筋を撫でる后子の手つきはどこまでも優しい。僕は顔を后子に向けて、そっと鼻先で触れた。柔らかいヒトの肌の感触が伝わってくる。


 数度つつくように鼻で触れれば、后子は優しく僕の下顎に触れ、そのまま少し引き寄せて自分の顔を寄せる。僕は目を瞑って后子に擦り寄る。


 シャッター音と、観客の騒めきが耳に届く。


 僕の血液に新たな栄光が刻まれる。

 父の血脈に新たな勲章が贈られる。

 けれどそれよりも、今ここでこうして彼女に触れられている事のほうが、何倍もの価値を持つものだと────僕は、確信していた。

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