Chapter-05 騎手の休息

 皐月賞、安田記念、スプリンターズステークス、菊花賞。

 G I四勝だなんて過去の私に話したら「嘘つけ」と一蹴されるに決まっとる。


 しかしこれは間違いない現実で、私の手の中にある少し草臥れた鞭が今までの苛烈な戦いを示している。あまりにも強く握っていたようで、持ち手部分が少し剥がれて明らかにひび割れている。……ひび割れにくい素材のはずやねんけど。



 次走────有馬記念。



 ホワイトボードにでかでかと書かれたその文字を、私は睨む。

 即ち、私たちは再びフジサワコネクトと激突する。


『鉄骨娘』と『黒の紳士』──四度目の対決である。今のところイーブンだが、この有馬記念で勝てば一歩リード。私は晴れてグランプリジョッキーの称号を手中に収める。

 いや、そんな簡単にはいくわけあれへんけどな。


 菊花賞後帰厩したロジェールマーニュは、特段これと言って妙な様子を見せることもなく元気にしている。ただやはり消耗しているのは間違いないので、現在は緩めの調教メニューを組んで体重をまず戻す方針だ。そんなロジェといえば、一気に十キロ近く体重が減ったせいか、少しロジェの腹から骨の線がうっすら見えていた。


 まあでも隣の馬房に住んでいるスノーホワイトにガン飛ばしたりにんじん強奪したりする元気はあるみたいやし、特に私が気にする事はなさそうやわ。っていうか仲悪いんよなこの二頭。ロジェ、割と本気でスノーに対してガン付けてるからなあ。何でなん。最初仲良くしてたやん。


 と言ってもそれは渚ちゃんの仕事で、私には騎手としてすべきことが山積している。



 もっと強く、もっと巧く。己を一振りの日本刀の如く研ぎ澄ませ。

 そうして私は、馬が誇れる騎手にならなければ。



 瀬川迅一を超えなくては。




「……つうわけで、有馬まで残り約二ヶ月。その前にスノーのJBCクラシックがある。二頭とも万全の状態に持って行けるようにしねえとな」

「来年きっと入厩希望が殺到しますし、スタッフ増員も! ねっ、岩蔵さん!」

「そうだね。流石に俺となぎちゃんだけで何頭も面倒は見れない。俺の方から散会してる佐々木厩舎のメンツに声かけてみるよ」

「ありがとうございます、岩蔵さん。……って后子さん? 何険しい顔してんの」

「え、ああ、ううん。なんでも……ないです」

「本当に大丈夫ですか? 后子さん──最近なんか、顔が険しいです」


 渚ちゃんがそう言って私の頬をふにふにと触った。そんなに険しい顔してたやろか、と思い眉間を軽くもんでみる。思った以上に肩に力も入っている気がして、なんとなくぐるぐると肩を回してみた。


「ど、どう? 柔くなった?」

「はい! さっきよりは断然、いいと思います」

「よかった。……うん」


 心配そうな顔で三人が私を見遣る。渚ちゃんは「笑顔、大事ですよ!」と言いながらにっと笑った。私は無理矢理口角を引き上げて笑顔を作ってみる。どこかぎこちない気がして、指で自分の口角を無理やり押し上げた。


 燻っているのは何だろう。

 答えの出ない焦燥感と、やみくもに背負い込んだ重圧と、私自身が抱いた誓い。



『后子』


『お前……GⅠ勝つまで帰ってくんな』



 一遍ぐらい、顔見に行ったほうがええんかな。そんな思いがよぎって、私は大阪へ思いを馳せる。

 故郷。大阪は道頓堀。入れ替わりの激しいB級グルメの激戦区。そこから一本外れた通りはボロけた雑居ビルやボロアパートが並んでいる。私の故郷はそんな場所だ。

 蛾が街灯の明かりに群がるようにこの輝く世界へ手を伸ばした。何かになれると期待して。誰かに必要とされる存在になりたくて、シャルルの遺した子供たちにそれを求めた。

 そして今、私はそんな憧れ──シャルルが遺したロジェールマーニュの背にいる。



 故郷・道頓堀を離れ──早十年が経とうとしている。競馬以外で久々に大阪へ戻ってきた。

 用事があるときは阪神競馬場しか行かへんし。仁川やし、あれは兵庫やし。こっち方面にはほとんど来ない。


 私が所属するトレセンのある栗東市からもかなり近い大阪府だが、こと道頓堀という地区に限って言えば、十年間も離れれば変わって見える。けど、かに道楽には相変わらず足をパタパタ動かすカニの看板があった。

 周辺の飲食店は入れ替わりが激しく知らん店だらけ……なのだが。

 それよりも気になって仕方ないものがある。



「……なんやこれ!!」


 張られていたのはポスターだ。確かこれは『人馬の肖像』シリーズ。ロジェと私がでかでかと映ったやつがいたるところに貼ってある。どういうことやねんほんま……と思いながら、私は父の動物病院がある雑居ビルまでやって来た。


 どでかいタコの看板があるたこ焼き屋の真横にある雑居ビルの二階、そこに親父が経営する動物病院がある。住み込みで働いている、と言っていたので多分私の記憶違いでなければここにおるはずやねんけど。

 雑居ビルに足を踏み入れ、エレベーターが来るのを待つ。するとそこに私の名を呼ぶ声があった。



「后子? ……后子、よなぁ? ……うそ、后子やんなぁ!?」

怜奈れな!? 何年振りよ!?」

「うわぁ~~~~!! 后子ォ────!! 二冠ジョッキー!!」

「うぉおお痛い痛い痛い締まってんねん力強いわアホ!!」


 ぎゅうぎゅうと抱き着くのはこの辺で飲み屋を経営する私の幼馴染、神宮司怜奈じんぐうじれなだ。私より騒がしいのが玉に傷やけど明るいところは怜奈の美徳。薄紫色の着物姿を察するにこれから開店準備と思われた。

 この雑居ビルの一階に入っている怜奈のバー(バーっちゅうかスナックやねんな多分。おかんから経営引き継いだて言うてたし)は近辺の労働者のたまり場だ。

 まぁ怜奈はおまけとかせず容赦なく金巻きあげるんやけど。


「うぅ……菊花賞なぁ、見に行ったんよ。ごうさんも来てたはずや。行くて言うてたし。ほんまに……感動した……ロジェールマーニュ最高や一生推す……あっ通りにポスター張ってたやろ? あれなぁ、この辺の人らみんなが勝手に貼ってん」

「剥がして」

「なんでよ!? みんなに好評やで。道頓堀どころか大阪の星なんよ!? 今の后子は」

「いやはずかしいねん。選挙ポスターでもあんな貼り方せんのよ」

「ええや~ん。減るもんやあれへんやろ? うちの店にも貼ってんで。刧さんと飲みおいでや。あ、ジョッキーって酒飲んだらあかんのやったっけ?」


 いやそんなことは、と話せばほんなら後で来てや、と念を押されてしまう。本当はあんまり無駄遣いしたくないのが本音だが、まぁ……今日ぐらいはええか。


 私は怜奈と別れて来たエレベーターに乗り込み二階の動物病院へ向かう。

 案の定休診日なわけで閉まっているが、インターホンがあったのでそこを連打すれば「あ~~はいはい今出ますよ~~」と気怠そうな親父の声がインターホン越しに聞こえた。懐かしさを覚えるその声に少しだけ目頭が熱くなる。



「ったく、誰だよ……って后子か。お前下で怜奈に会ったろ。さっき電話してきやがった。飲みに来いって──、おい、后子? お前何泣いてんだ」


「つらかったんや」


「…………ああ」


「本当に、辛かった。長かった。やっと、やっと……やっと!!

 ……私、わたし、どんだけ笑われても、石投げられても逃げんかった。

 なぁ、お父さん。わ、私────頑張ったよなぁ? 馬が誇れる騎手に、近づいてるよなぁ?」


「それは俺じゃなく、ロジェールマーニュに聞け。

 だが、……まぁ、そうだな。……よく頑張ったな。后子」




 ✤




「ロジェ、有馬記念出んのか?」

「あほ。言われへんねんその辺は。競馬Net見てや。そのうち出馬表出る」


 これでもかと泣いてすっきりした私は、親父に引っ張られながら怜奈の店に連行された。

 なぜかそこに道頓堀の周辺住民が結構な人数スタンバっていたのは追及しないでおこう、と思う。……明日からもっと絞ろう。


「そういや后子。ロジェールマーニュの特番があってたぞ。あの馬、お前といるときはデレデレなのになんでお前いないとあんな塩対応なんだよ」

「ウソやろ? ロジェは普段から結構サービス精神旺盛やで」

「それお前が鞍上にいるからだろ……。あの馬お前以外どうでもいいですって顔してんぞ」

「さすがにそれは盛ってるやろ。なぁそれ録画してへんの? 私も見たい」

「録画? あー……多分してる。後でな」


 そんな他愛のない会話でさえ久々だった。十年間大阪を離れていた間、親父とは元旦に一度挨拶をする程度しか連絡を取っていなかったのもある。それ以外にも私にとっての逃げ道を絶っておくという面もあった。


 馬『が』誇れる騎手になる。その日までは。


 渚ちゃんにはどうも私が気を張っているのを見抜かれていたようだが、正直に言って気を張っている自覚さえないままだったのは危険だったかもしれへんな、と思う。

 からん、とグラスの中で丸い氷が揺れる。明日にはもう病院を開けるから、と親父はさっさと帰ってしまったが私は怜奈の店に一人残っていた。


 ウイスキーはちょっと私には強い。かなり酔いが回っている感じがして、頭が重たかった。こんなもん怜奈はほぼ毎日ペースで何杯も飲むんか。どうなってんねん肝臓。強すぎや。



「后子。ほれ、水。……あんた普段はそんな飲まんやろ?」

「う……うん。おおきに……」

「明日にはもう栗東に帰るん?」

「うん……。帰る。調教あるさかい……乗らなあかんねん……」

「大変やなぁ。ま、今の后子には嬉しい悲鳴なんやろけど」


 怜奈はそう言ってグラスを磨き、私が手を付けていないグラスにレモン果汁を注いだ。多分吐きそうになっているのに気遣われたんやろうなぁ、と思いつつ口をつける。怜奈は酔っぱらって突っ伏している私を一度見て、再びグラスを磨き始めたがどうにもなにか言いたげだった。私は何も言わずカウンターテーブルから顔をあげて怜奈の顔をじっと見る。



「なぁ后子、あんたやっぱ無理してるやろ」

「まぁ、うん……多少は……してると思うで。……私には競馬しかあれへんし。ロジェの鞍上になって、……私は」

「そか。たまには帰っといでよ」

「……うん。おおきに、怜奈。…………それはそれなんやけどさ」

「? なんやねん神妙な顔して」

「は…………」

「は?」

「────吐きそう」

「はよ言わんかいアホ!!」

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