Chapter-03 熱き誓いをその身に宿して(1)


 とある孤高のステイヤーがいた。


 これも私が生まれるよりかは前の事なので、直接そのレースを見たわけではないからそのすごさを肌感覚で知ることは叶わない。


 だが、今日の瀬川とフジサワコネクトといえばその言葉が似合い過ぎるほどに集中していて、背後を向けば喉元を食いちぎられるのではないか、と錯覚するほどにはぞっとした。



 ただ一つの気配。



 ただ一人が発する異様なまでに砥がれた気配が、控室の室温を二度ほど下げているような気がした。

 いつもなら面倒なほど私に話しかけてくる瀬川がその気配の主である事は、容易にわかる。


 単純な話、こいつは今まで格下やと思てたやろう私に大差で負けて死ぬほど悔しがっていた。


 今まで無意識下で小馬鹿にしてた奴にハナを奪われて、挙げ句の果てにそのまま逃げ切られるんやから。それは悔しい事だろう。


 正直スノーホワイトとGⅠスプリンターズステークスを快勝したことで、調子に乗ってる自覚はあった。ロジェ以外の馬に乗っても勝った、っていう自信もついたし。

 スノーホワイトもハチャメチャに調子乗ってたし、私もさすがにこうも勝ちが続くと慣れてくる。



 そこに冷や水どころか液体窒素をぶっかけてくるような、そんな冷たくて鋭利な気配を携えているあの人馬には──さすがに恐れ戦く。

 その冷たさに、勝利への渇望に飲み込まれるのが恐ろしくなって、私はパドックの方へ視線を向けた。

 しかしロジェといえば、渚ちゃんが一人で引っ張るパドックでも変わらず落ち着いていた。菊花賞だから、とかそういう浮かれた気配も一切ない。


 ただ己の走りをするだけ。そういう一本芯の通った雰囲気を纏っている。



「ロジェがブレてへんのが唯一の救いや……」

「ほんとだよ……怖すぎだよ瀬川とフジサワコネクト……なんだよあれ……」

「国美さん大丈夫? 生きてる?」

「何とか生きてる……けど。后子さん。フジサワコネクトとしては……そりゃああんだけ集中もする、か……」


 国美さんはそんなことを言ってネクタイを少し緩めた。菊花賞の出走まではまだ時間があるものの、この京都競馬場には十万人を超す観客が詰めかけている。熱気が高まり、期待感に押しつぶされそうになる。刻一刻と時計の針が進み、菊花賞の出走時刻が迫るたびに胃の中身がせり上がってくるような錯覚に襲われる。


 だが────。



「鉄骨娘・フジサワコネクトが二冠か、黒の紳士・ロジェールマーニュの二冠か……どっちが勝っても名勝負だ。気負い過ぎんでくれよ」

「何言うてんねん国美さん。まさか手心加えろ、やとかつまらんこと言わへんよな」

「まさか。言うわけねえだろ。いつ俺がそんなこと言ったよ」

「だってどっちが勝っても名勝負やなんて言わはるから」


 私は笑って国美さんの肩をどつく。声が震えているのがばれたかもしれん。にやりと悪そうな笑みを浮かべる国美さんは多少緊張がほどけたようで、一度息を吐きだして吸う。


 私も一度生唾を飲み込んで息を吐きだせば、うるさくしていた心臓は落ち着いてくれたようだった。そろそろ時間だ。腕に着けていた髪ゴムで降ろしていた髪の毛を適当に縛る。

 安いシャンプーで洗う金色の髪はひどく荒れて枝毛まみれだ。私は手袋を嵌めたまま人差し指でぐるぐると横髪を指に巻き付けてみる。ふと──同じ金髪碧眼の母親のことを思い出した。髪が伸びると、あの面影にどうしても近づく。それが嫌で昔は髪を短くしていた。



 私と父を捨てた母。ひとり、父以外の男を選びどこかへ消えた母。

 今どうしているだろう。



 ロジェールマーニュの名声が高まり、競馬に明るくない人でもロジェールマーニュの名を知っている今の状況ならば、自然と鞍上にいる私の名前もニュースで出ることだろう。

 もし、その過程で私の名前が彼女の目に入ったなら──どうだろう。私を忘れているだろうか。


 覚えているだろうか。


 それより今はレースに集中しよう。私にはすべきことがある。



 京都競馬場────芝・三〇〇〇メートル。

 菊花賞。最も〝強い馬〟が勝つとされる、クラシック路線最後の舞台。



 ロジェールマーニュの前を、誰にも走らせないこと。

 ロジェールマーニュという競走馬のポテンシャルを、存分に引き出すこと。

 ロジェールマーニュを、「無敵の紳士」たらしめること。



 ロジェールマーニュと共に、勝つこと。それが今の私がやるべきことだ。



 だが、ほんの少しだけ揺らぐモノがある。私の心の奥に眠っていた何かが──こちらを覗いている。私に問いかける。


 本当にこのままでいいのか。ここから先は違う。


 もう嘗ての私ではなくなった。負け続け、嘲笑に慣れ負けることは当然だと受け流す私ではない。負け続け、石を投げられた私ではない。全敗の騎手と嘲笑された私ではない。


 常に求められる。ロジェールマーニュという競走馬に相応しい騎手であることを。強い馬を勝たせる騎手であることを求め続けられる。勝ち続けることを期待される。騎手としての偉業を成すことを求められ、期待され、そしてその振る舞いが出来なくなれば再び私には石が投げつけられるだろう。


 石を投げられ批判にさらされるのはいい。それは私だけの問題だ。だが、馬にその矛先が向く事態になることだけは。



 もう二度と「白綾后子が鞍上なら負ける」など、そんな評価を馬に浴びせるわけにはいかない。


 その重圧が私の両肩に──



「うぉっロジェ」


 いつの間にか真後ろにやってきていたロジェが私の背中を鼻でつついた。柔らかい鼻先が私の背中に触れている。じっと私を見つめる紺色の瞳が、私に優しくも厳しく訴える。


 乗れ。──必ず勝つから、ただ乗れ。

 走ることを愛するロジェが私にただ乗れと言う。


 そうだ。迷う必要などどこにもない。

 私はただ今までと同じように、ひたすらに方向指示器に徹する。ロジェをただ導き、勝利への最短距離を案内するだけでよかった。


 馬が誇れる騎手になるために、馬に溶け込むような騎乗をして、私たちにはただ、先頭を譲らないという確たる意志さえあればいい。

 この菊花賞という大舞台で、ロジェールマーニュという馬の強さを叩きつけてやればいいだけのことだ。



「そうやね。……そう。誓った」



 誰も、この馬の前を走る事など罷りならん。そう誓ったのだ。その誓いを果たすために菊花賞までやってきた。ならばロジェの思いに応えないなど嘘だろう。



「……菊花賞を勝つのは私らや。……私は、私を超える」


(────勝つよ、后子。

 僕は君を乗せて、スピードの向こう側まで駆けてみせる)



 強烈な意志が私を燃やす。青い炎がゆらりと揺らめいた気がした。

 発走二十分前。本馬場入場が始まった。




 ✤




 一枠一番を引き当てたフジサワコネクトは、落ち着いた確かな足取りで返し馬をこなしてゲートへ向かった。その様子を見ていて思うが、これまでのフジサワコネクトよりも一層絞って己を削ぎ落としてきたな、という印象を受ける。


 ロジェールマーニュは外枠一七番だが、戦法はこれまで同様に『先頭を譲らない』一択なので正直に言って枠番は関係ない。スタートさえ綺麗に決まってしまえばあとはハナを進むだけ。


 どこぞの軍師が言うが、勝負に奇計も切り札も要らぬ、とはこういうことを言うんだろうな、と頭の隅で思った。流石にロジェでも観客の前では緊張してくるようで、少し返し馬の動きが硬い。


 私はゲートのそばまで移動した後ロジェの目元を少しくすぐって馬体を撫で、出来る限り緊張を解そうと努めた。顔に触れている私の手に擦り寄る様は猫のようで可愛いが、ゲート周辺は異様な空気に包まれている。


 偶数番の馬から順に枠入りすることになっているが、どの馬も枠に入ろうとしない。寧ろ何かに近寄ることを恐れているような、そんな雰囲気さえ気取った。



 動かない馬たちの視線の先には、銀に輝く芦毛の馬体を持つフジサワコネクトがいた。


 鉄骨娘。芦毛の最強牝馬。


 威圧感。貫禄。言語化できない圧が今の彼女にはあった。ただそこにいるだけなのに。枠入りを待っているだけなのに、この存在感。フジサワコネクトの鞍上にいる瀬川と、フジサワコネクトが放つ気迫が周囲の馬たちを威圧し怯えさせている。

 ロジェはそこまでという風だが、他の馬たちはそういうわけにはいかないらしく、一向に動かない。鹿毛の馬体を持つ一頭が少し後ずさった。


 それほどまでに強烈な勝利への執着心。余りにも鋭利な勝利への渇望がそこにある。近寄れば確実に斬られる、そんな風にさえ思うほどには、強い想い。


 だがそれがどうした? 私とロジェールマーニュは唯、先頭を走るのみ。

 そう言い聞かせる。意識の外だ、とは言えない。そんなことを言えば嘘になる。だがそれ以外の選択肢などありはしない。


 私は自分でも驚くほどに落ち着き払っていた。その私の落ち着きに納得したのか、ロジェは私の指示に従って枠へ向かう。その様子を見た他の馬たちも枠へ向かうが、一向に他の馬は入ろうとしなかった。



「……なんだ、この空気……なんか……怖いな……」


 ぼそり、とカメラを担いでいたテレビ局員が言う。同感だ。今年の菊花賞は荒れそうな気がする。依然として枠に入りたがらない馬たちはゲートの周りで足を踏んで怯えている。


 内枠で強烈な闘志をビシバシとロジェと私へぶつけてくるフジサワコネクトと瀬川の気配は無視できるものでもない。嫌でも感じさせられる「こいつの前へ行きたい」という執着が、私の背骨に食らいついている。


 菊花賞は、最も強い馬が勝つ舞台だ。クラシック路線の最終戦、三〇〇〇メートルの長距離で争われる。


 スタミナ・パワーが重要なこのレースならば、スピード型のロジェよりフジサワコネクトのほうに軍配が上がると考える者も多いだろう。加えてこの気迫だ──発送時刻が数秒と迫っているというのに一向に枠入りが終わらないぐらいに、他の馬へ影響を及ぼす強いモノ。


 本当に牝馬か? と疑いを掛けたくなるほどに強い馬。まさしく鉄骨の如く強靭な脚で終盤、最後方から爆発的な加速で突っ込んでくる馬。そしてその強さは意志にも宿る。



「──鉄骨娘の名は伊達やあれへんな/じゃないな」


 本当にそう思う。まぁ、だから私らがどうかするわけではないんやけど。

 強い馬やということはデビュー当時から知ってる。新馬戦以降、皐月賞でロジェに負けるまで無敗やっためっちゃ強い牝馬や。誰が見ても強いのは知ってることで、疑う余地はない。


 発走時刻を過ぎても枠入りが終わらないので、五分遅らせてでのスタートとなる、とアナウンスが競馬場に響いた。ロジェ含め三頭の馬が枠に入っていたが一度出て、もう一度枠入りをやり直す。奇数から入れます、と係員が案内する。一枠へフジサワコネクトが入る──それを見た奇数番の馬たちもどこか安堵したように枠へおさまっていった。偶数の馬たちは緊張がほどけてきたのか、落ち着いた足取りで枠へ入っていく。


 ロジェの集中も途切れていない。ただ前へ、という目標だけを見据えている。


 ────スピードの先へ。前には誰もおらず視界へちらつく馬の影もない。

 そんな先頭を走り続ける。見えるのは芝の緑と空の青だけ。


 誰も、ロジェールマーニュという馬の前を走ることはない。

 先頭にいるのは青毛の馬が一頭のみ、ロジェールマーニュだけがただ馬郡から突き抜けて走る。

 ただひたすらに前へ。その決意が私の心を燃やす。



「ただ前へ。スピードの先へ、行こう。……ロジェ」


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