Chapter-03 誰もが星へ手を伸ばす
『……遥かなる道を超え、世代の頂点へ。
すべてのホースマンが目指す頂点、東京優駿──日本ダービー!
────本馬場入場です!』
日本ダービーの舞台は五年ぶりだったが、もうあの時の私とは違う。私はあの五年前のダービーで走る前から負けを確信していたが、今日はそんなことは考えていない。
走る前から負けると思うのは馬に失礼な行為だ。いかに今までの私が迷走していたか、それだけやなくて──賞金の収入に依存する騎手という仕事上、勝ちがなければ貧乏決定なわけで。
金銭的な余裕のなさは、精神を徐々に蝕む。それは元々体格から騎手に不向きな私にとって、一番忌むべきもののはずだった。
この日本ダービーという舞台に再び上がれたのは、ここまで来れたんは私一人の力やない。私とロジェはちょっと遅かっただけ。まぁ遅咲きやなんて自負はあれへんけど、ロジェはこっからぐんぐん伸びる馬。
ダービーという『最も運のある馬が勝つ』舞台で、運に見放された私と運を掴みきれなかった馬が挑む。
これが出来過ぎた脚本でないことは、私もロジェも、きっとよく知っていた。
「白綾!」
「瀬川。調子良さそうやね、フジサワコネクト」
「追い切り見てたのか?」
「嫌でも見てまうがな。同じトレセンにおんねんから……それに坂路コース使てたやん」
「あれ? そうだっけ……? ロジェールマーニュいた?」
「自分ほんまにそういうとこやで」
そういうとこってどういうとこだよ!? と嘆く瀬川を横目に、私は早よ行きや、と急かす。瀬川騎乗のフジサワコネクトは三枠五番での出走である。
前を行く栗毛の馬を見送って、フジサワコネクトは歴戦の調教師に引かれながら地下馬道の坂をゆっくりと登っていった。出口に向かうたび歓声が大きく聞こえる。
五年前も見送った。ターフでは先頭を走る馬の背を見ているしか出来なかった。だが今度は、そうはいかない、いかせない。
どの馬の追随も許さない。影さえ踏ませてなんかやらない。
ダービーを勝つのはロジェと私だ。
────誰も、誰もロジェールマーニュの前を走る事は許さん。
一瞬だけ手綱を引いていた渚ちゃんの表情が恐れに塗られた。ロジェの背に乗ったまま、上体を下げてどないしたん? と聞けばすぐにいつも通りの顔に戻って、何でもないです、と花のように笑う。
私はロジェを撫でながら考えた。
ダービーという舞台。誰もが思い願うホースマンの夢。国美さんも渚ちゃんも馬を送り出すのは初めてで、緊張しているのが嫌というほど伝わってくる。だが同時に楽しみにしてるんやろな、と思った。ロジェがどんだけ早く走れるか。
坂路コースでは追い切り自己最速を更新した。ロジェがどんだけの差をつけて勝つか。皐月賞では四馬身と二分の一をつけた。だからきっと、ダービーも。その思いは人気となって現れている。二人の期待と観客の期待は同じ熱量だ。
「国美さん、渚ちゃん……私……、一番人気の馬に乗るのは初なんよね。やから……」
「おおおおおう。きっ……気張れよ! 后子さん!」
「めっちゃ応援します!! 頑張ってくださいね!!」
「いや最後まで聞いてや。二人をダービートレーナーにするさかい、瞬きせんと見とってや」
今までの競走成績からは考えられない程に自信満々な言葉がするんと口から出た。ロジェはその言葉に応えるように鼻を鳴らした。耳は相変わらずぴこぴこと動くがどっしりと落ち着いている。
地下馬道の出口──そこから降り注ぐ陽光が私たちを照らす。いい天気だ。澄み切った青空と、良馬場となった芝が目に入る。国美さんと渚ちゃんが手綱を外す。それを合図にロジェは走り出した。私は軽く手綱を握って、待避所までロジェを走らせた。
✤
芦毛の最強牝馬、『鉄骨娘』ことフジサワコネクト。そのフジサワコネクトの皐月賞戴冠を阻んだ『黒の紳士』、ロジェールマーニュ。この世紀の対決となった東京優駿・日本ダービーは今までのダービーの雰囲気とは異なり、異様な熱気に包まれている。
その熱気に押されるようにフジサワコネクトは落ち着かないのか首を左右に動かしていた。彼女の背にいる瀬川迅一は嫌な焦燥感に駆られる。二枠四番での出走となったロジェールマーニュは、当然前走の皐月賞を勝った事で一気に一番人気になった。フジサワコネクトの人気は皐月賞からは一つ落として二番人気である。
勝つ事を当然のように受け流してきた。フジサワコネクトはそういう馬だった。だが初めてつけられた土──彼女にとっては全く眼中になかったロジェールマーニュに大差で敗れたこと。これは相当悔しかったようで、彼女は先程からひどく気が立っている。
真後ろにいるロジェールマーニュはどこ吹く風という風で楽しそうに白綾に撫でられていた。
(これは……まずいな。抑えられるか?)
フジサワコネクトは今にも暴れながら走っていきそうな、掛かって前に行きたがりそうな雰囲気を持っていた。
瀬川は眉を寄せつつ考える。皐月賞の時に緊張で真っ青になっていた白綾はもうどこにもおらず、ロジェールマーニュも殆ど緊張の「き」の字も無いように見えた。
だが一つの勝ち星に浮かれている雰囲気では無い。瀬川はフジサワコネクトの調教師が言った、「白綾后子が化けた」という言葉は全く嘘では無いのだと今更のように痛感する。
わかっていたはずだ。教官から才能がないと言われても、馬に真摯に向き合い続けていた。
なにより研鑽を怠らなかった。競馬学校を成績最下位で卒業しても、勝ちが無くても白綾は諦めなかった。
その差が、皐月賞で出ただけ。俺と白綾の差はきっと、執念の差だ。
瀬川は脳裏でそのようなことを考える。
もうすぐ発走である。馬を走らせながら瀬川は必死に考える。この鉄骨娘を御すにはどうすればいいか。ロジェールマーニュのスピードに追い付くにはどうすればいいか。レース展開はもうわかりきっている。
『逃げるロジェールマーニュに後続の馬が追いつけるか』が勝負のカギだ。
爆発的な追い込み脚を使うには、序盤は最後方で抑えておく必要がある。フジサワコネクトが言うことを聞いてくれればいいんだが、そう思いながら瀬川は手綱を握り直し、ゲートへフジサワコネクトを導いた。
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