Chapter-02 二冠目へ
「──作戦! 会議! だ!」
パチパチと地味な拍手が巻き起こった。ここは国美厩舎二階にある会議室である。私──白綾后子はパイプ椅子に座ったままホワイトボードに『目指せ牡馬三冠!』という勢いのある文字を書く、ロジェールマーニュの厩務員である梅原渚をぼんやりと眺めた。
皐月賞を勝利して、全休日の月曜日を挟んで──火曜日。全く実感がないまま、私たちはクラシック第二戦日本ダービーへの調整期間へと突入してしまった。晴れて皐月賞馬となったロジェールマーニュの調教師である国美道長もまた、皐月賞勝ちに浮かれている一人で、その浮かれポンチ軍団の中には──まぁ、当然私も含まれる。
「ロジェが泰然自若としてんのが唯一の救いやわ……」
私はぼそりと呟く。浮かれポンチ調教師&厩務員はさっきから延々と「三冠! 三冠!」と連呼しているが、三冠をそう簡単に達成させてくれるわけがない。
なんてたってフジサワコネクトやで? そんな簡単に負けてくれるわけあれへんやん。まあ、私もちょっと「三冠……これ、ほんまにいけるんとちゃう……?」て思ってる節はあるし、あんま二人を浮かれポンチやって揶揄できひんけど。
フジサワコネクトの戦績はまさに怪物。新世代の芦毛の怪物と言って差し支えない。
新馬戦から四連勝、しかも重賞二連勝でGⅠホープフルステークスを横綱競馬で勝利。その後は牝馬三冠路線の第一弾である桜花賞を無視して、牡馬クラシック路線(※ルール上牝馬も出走可能。歴代の出走数が少ないだけ) の皐月賞に駒を進めた史上最強の牝馬となる可能性がある子。それこそがフジサワコネクトという名牝だ。
今回は私の相棒ロジェールマーニュに土をつけられたものの、最後まで瀬川の指示に応え頑張って追い込んでいた。
瞬発力だけでなく、加速力の高さ。地面を踏みつければ「ドン!」と遠くからでも聞き取れる剛烈な音を立てる、凄まじい脚力。直向きに走る強靭な精神と、並んだら抜かせない勝負根性。そうした要素がフジサワコネクトを『鉄骨娘』たらしめている。
「やあみんな、待たせちゃってすまないねえ」
会議室にロマンスグレーの髪をオールバックに、口ひげを蓄えた優雅な男性が入ってきた。ロジェの馬主である神代信二郎氏である。
相変わらずにこにこと笑顔をたたえ、実に物腰柔らかな雰囲気を醸し出している。私は椅子から立ち上がってお辞儀をし、その様子を見計らって国美さんが口を開いた。
「神代さん。この度は本当に……ロジェールマーニュ号での皐月賞制覇、おめでとうございます」
国美さんは見本のような九十度のお辞儀をして奥の机に置いていた花束を手渡した。渚ちゃんも額に入れられたゼッケンを手渡す。
「ははは。ありがとう。これも君たちの努力の賜物さ……ああそうそう。后子ちゃんにはこれを」
「……? はい、ってこ、これ……これ!! いや、ええ!! い、頂けませんよこんなええもん!」
すっと会議室の長机に置かれた箱は高級缶詰の詰め合わせだった。優勝記念という熨斗が箱にくっついている。神代さんは箱をそっと開けて中を私に見せる。
カニ缶。
カニ缶や。カニや。超高級カニ缶。三越伊勢丹なんかで売っている超高級カニ缶詰の九個詰め合わせギフトセット──。
「あかん……これ……絶対美味しい……」
「后子さん!! 顔!! 顔ヤバい!! もう完全にカニの気分になってる!!」
「止めんでや国美さん、私はカニを食べる。絶対に食べる。今日はカニ鍋や」
「駄目だって。これ食ったらもうカニカマじゃ満足できんくなる。あぶないって」
「──今この最高級カニ缶が食えるなら、私はカニカマを二度と食えん体になっても惜しくない!!」
「駄目です后子さん!! カニカマは安くて手ごろ、庶民の味方です!! 缶詰は長持ちするのでクラシックが全部終わるまでとっときましょう!? ねっ!?」
「カニ~~!!!!」
「やばい后子さんがカニの亡者に!! 取り押さえろ渚!!」
「──はい!! 后子さん、全部終わるまで取っといた方が絶対美味しいので今は駄目です!!」
閑話休題。渚ちゃんに一発スリッパで引っぱたかれ、私は正気に戻った。カニは人間を容易く変える魔力を孕んでいるらしい。私ははたかれた頭を摩って、ホワイトボードに紙を貼っている国美さんに目を遣った。
東京優駿・日本ダービーは東京競馬場の芝二四〇〇メートルで競われる。最も「運の良い馬」が勝つレースと言われ、全てのホースマンが勝つことを夢見る舞台だ。
無論私もダービーを勝ちたいし、国美さんや渚ちゃん、神代さんだってそう。みんなダービーの称号が欲しくてたまらない。
先を行くダービージョッキーたちは言う。「今までの勝利、その全部を引き換えにしてもダービージョッキーの称号が欲しくてたまらなかった」と。三〇〇〇勝以上している名手でさえも、それほどまでに勝利を渇望させるもの──それが、ダービーという称号だった。
「后子さんって確かダービー乗ったことあったよな?」
「……っす……」
「急にテンション低いな。そんなに嫌な思い出?」
「嫌ではあれへんけど……申し訳なかったて思うんです。……こ、コースの話ですよね!」
私は無理やり明るい声を出す。国美さんがそれに気づいているのかは定かではなかったが、彼は特に何も気にせずホワイトボードへ視線を向けていた。
「できるだけ内枠引いてほしいけど……そこは天に祈るしかないな……」
ダービーは正面スタンド前からのスタートとなり左回りで競われる。三五〇メートルほど直線を走って第一コーナーに突入。そこから坂をゆるやかに下る動作を挟み、向こう正面へ向かってから平坦なコースを走る。だが第四コーナーの手前に急な坂があり、そこを上って最終直線へ突入する。
世代の頂点を決めるレースであるから、全ての馬に無論勝つチャンスはある。
だが外枠が不利となるというのは間違いない。外枠を引けばハナを奪うのに長い距離を走る必要があり、大駆け走法のロジェは距離をロスすることになる。
ただロジェに関して言えば距離の延長自体は良い方法に作用するだろう。瞬間的な切れる足があるわけではないが、じわじわとギアを変えて加速するという走り方をする馬だ。ハナを奪えれば勝利を食いちぎれる可能性はある。
問題はフジサワコネクトだけではない。皐月賞を無視し、無敗でダービーへ駒を進めてきた馬がいる。
しかも鞍上は名手・武内秀吉。『お祭り男』などの愛称で親しまれているが、彼は一時代を築き上げた名手の中の名手だった。国内三〇〇〇勝、海外GⅠ──しかも欧州の高い壁を初めて打ち破ったのは、彼であった。
そんな武内秀吉が手綱を取る、無敗馬ナヴィアヴェラ。父親が現役時代にアメリカGⅠ八勝もした大種牡馬という馬で、セリでは三億円の値がついたという。
レース映像を見る限り、まるで赤子の手をひねるようにひょいひょいと他馬を蹴散らして勝っている。あからさまな本命候補どころか、本命になるべくして出てきた馬としか思えなかった。
「后子さん、后子さん! 宇宙背負ってないで帰ってきてください!!」
「まぁ、后子ちゃん。ダービーは気楽に行きなよ。僕は菊花賞が大目標だと思ってたから。いやぁまさか皐月賞勝っちゃうとは思って無くてねえ」
神代さんはおどけるような口調で言って、朗らかに微笑む。私は優し気な目元に気が僅かに緩んだ感覚を覚えていた。
「ありがとうございます。……せやけど、乗るからには勝つ気で行きます」
ほう? と馬主は声をあげた。先程までは優しさにくるまれていた勝負師の顔が覗いている。私は意識的に挑戦的な笑顔を浮かべる。
「やな、勝負にすらならへんし、何より頑張って走ってくれるロジェに失礼ですわ」
「君ならそう言ってくれると思っていたよ。ああ、そうだ国美くん。君に一つ頼みがある」
神代さんはそう言って皮の鞄からクリアファイルを取り出し、書類を引き抜いて机に並べた。真っ白な馬の写真がある。漂白されたてのカッターシャツの如き白さ。白毛馬だ。栗東には一頭しかいないので、みんなこの馬の事は知っている。
スノーホワイトという牡馬だ。現在四歳で、三歳時にNHKマイルカップを勝っている快速馬。だがマイルカップ以降は成績が伸び悩み勝てていないらしい、という程度の情報は小耳にはさんでいた。
「スノーホワイトじゃないですか。何かあったんです?」
「佐々木先生が大病しちゃって、入院することになったんだよね。転厩先探してて、国美くんのところどうかなあと思ってね。明るくて割と温厚な子だし、どう?」
「喜んで預からせていただきますよ。鞍上は……」
「じゃあ后子ちゃんで」
神代さんは間髪入れずに言った。私は持っていた湯呑を落っことしそうになり、慌ててしっかりと掴んだ。熱いはずの湯呑の温度を感じられないほど、私といえば焦っていた。
「えっ」
「了解です。次走はどことか、もう決まってますか」
「安田記念。賞金は問題ないし、出走権もある」
「あの」
「嫌かい?」
「私で……本当に大丈夫ですか? 私……」
私は短距離・マイルでの勝率が異様に低い。今まで勝ったことがあるのは小倉競馬場で行われたオープン特別戦小倉城記念だけで、それ以外は掲示板にこそなんとか載るものの大概二桁、いいところで六着──その程度だった。
それに皐月賞に関しても勝利を自分の実力だとは思っていない。いや、自惚れてはいけない。冷静に考えてもロジェが、ロジェールマーニュという競走馬がすさまじいポテンシャルを秘めていたからこその勝利だと、そう思う。
私は偶然鞍上にいた。それだけだ。
「君はさ、もっと自信を持つべきだと思うんだよね」
「自信、ですか?」
「君のお父さんは腕のいい獣医だ。借金まみれだけど。……それは置いといて……彼はさ、自分がどんな症例だろうが治せると確信している。些細な違和感に気を配り、観察し、答えを出す。君だってロジェールマーニュに無意識下でそうしただろう?」
「それは……」
「后子ちゃん。君は、馬『が』誇れる騎手になりなさい。だからスノーホワイトの力を引き出して、どうか安田記念を勝ってほしい。僕は君と、スノーホワイトが笑うところを見たいんだ」
その前にロジェールマーニュとダービー勝ってもらわなきゃだけどね、と神代さんは笑った。
私は馬が誇れる騎手になりたかった。でも負けが込んでそれをどこかへ置き去りにした。逃げ道を作ろうとした。無理やり自分を納得させて、適当な理由で悔しさを誤魔化した。
けれどロジェールマーニュが私を導いた。勝つことの意義。騎手としての矜持。置き去りにした目標。今はそれを拾うので手いっぱいなのかもしれない。
でも、それでも、私は──
『白綾』
『────ダービーは俺とフジサワコネクトが勝つ。首洗って待ってろ』
「……誰も、誰も。ロジェールマーニュの前は走らせん」
その誓いを口の中だけで呟く。私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
いい感じに闘志は残ったままらしい。
そして何より、こいつにだけは絶対に負けたくない。
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