第二章 〝Manner Makes Man〟
Chapter-01 黒曜石の瞬き
白綾后子という騎手が誕生するきっかけになったのは、ある青毛の馬だ。
およそ十五年前のことである。
六月も終わり頃、GⅠ連続開催の最後を飾るその日のメインレースは、春のグランプリ『宝塚記念』。
観客が期待したのはとある青毛の馬の復活だった。その馬の名は「シャルル」といった。
骨折を経て一年間の長期休養を挟み、宝塚記念へ出走すると言う。休んでいてもなお人気の衰えを知らない、皐月賞・ダービー・菊花賞を制した無敗の三冠馬。それがシャルルという馬らしかった。
その時の后子といえば競馬の知識など全くあるはずもなく、どの馬が良いとか悪いとかわかるはずもなかった。后子は会場の熱気に押されるようにシャルルを応援し、その黒を見つめていた。
スタート直後、シャルルは出遅れ最後方からのスタートになった。
他の馬よりも四馬身近い出遅れを休み明けで巻き返すのは、誰もが不可能だと思った。勝てなくても良い、走り切ってさえくれればいいと誰もが思った。
だが、シャルルはその観客の思いを華麗に裏切る走りを見せた。
残りの直線コースに入った瞬間、黒い弾丸が、馬群の中央を突っ切って前へ躍り出た。十七頭の馬をごぼう抜きして前へ突き進む。地を蹴る足は衰えを知らず、五百キロを超える肉体を前へ運ぶ。
シャルルに乗る騎手は鞭を入れながらさらに加速するよう命じた。ゴールが近づくほど凄まじい加速で後続の馬たちを突き放し、最後の上り坂をものともせずトップスピードで駆け抜ける。
二番手との差、およそ三馬身。
最後方からの猛烈な追い上げで逆転勝利を飾ったシャルルはそのレースを最後に引退する事となった。
その走りは誰の心にも酷く焼き付いて離れないものに、永遠となった──。
黒曜石の血脈に刻まれた伝説は子供たちへ引き継がれている。
シャルルからシャルルマーニュへ。
シャルルマーニュからロジェールマーニュへ。
そして白綾后子は今、そんな憧れが遺した馬──ロジェールマーニュの背にいる。
『────第四コーナーから直線へ向かう!! さぁ先陣を切ったのはロジェールマーニュ!! 四番ロジェールマーニュだ、凄い、凄すぎる!! 誰もロジェールマーニュに追いつけない!! 一七番フジサワコネクト苦しいが粘っている、しかしロジェールマーニュ、リードを開いていく!! 追いつけません!! 鉄骨娘の末脚でも、ロジェールマーニュを捉えられない!!
残り二〇〇、一五〇、ロジェールマーニュ現在リードは四馬身、行け、行け、行けぇえええぇえええ!! ────ゴォオオオォオオオル!!
────ロジェールマーニュ、他の追随を許さず、影すら踏ませずゴール板を駆け抜けたッ!! 逃げ切って一着!! 次が楽しみで仕方ありません!! もう「惜しい馬」とは言わせない!!
さらに、さらに白綾后子騎手重賞初勝利となりましたッ!! 中央競馬史上、女性騎手初の皐月賞勝利、大金星です!! ついに眠れる獅子が目を覚ました!!
────皐月の冠を手にしたのは、ロジェールマーニュと白綾后子だ!!』
瀬川迅一は録画していた皐月賞の映像を確認していた。画面の中では直線で一気に後続を突き放し、ハナを駆け抜けるロジェールマーニュの姿がある。鞍上の白綾后子はテンポ良く手綱を動かし、右鞭左鞭と交互にロジェールマーニュに鞭を入れ、確実に左右のブレを矯正して最短距離を走らせている。
ロジェールマーニュは直線で七度も手前を変えていた。通常の場合直線でそこまで手前を変えることは無い。カーブなどで曲がる際に前に出している前脚を入れ替えることこそあるものの、ここまで直線で何度も手前をころころと変えるのは珍しいと言えるだろう。
瀬川は映像をもう一度巻き戻す。スタートから一気に突き抜けてハナに立ったロジェールマーニュは、ただの一度も後続の馬に先頭を譲らなかった。大逃げ、と呼ぶよりも大駆けと呼ぶ方が正しいその走りは、あまりにも自由で──
「……優雅だ」
静かな空間に自分の声だけが響く。いつの間にか最後まで再生されて止まったテレビ画面は広告の一場面で静止していた。
日本ダービーでも確実に激突し、フジサワコネクトがダービーを勝つには必ず踏み越えなければならない相手。この疾風のような馬を捉え確実に勝つ方法。
徹底的にマークしてじりじり詰め寄りながら前を狙うか。それでは駄目だ。さらに逃げられる。ロジェールマーニュの走り方は距離が長ければ長いほど──さらに強くなる。フジサワコネクトはきっと二五〇〇メートルぐらいが距離延長の限界値。
ダービーの距離は二四〇〇メートル。
フジサワコネクトにとって最も勝てる確率が高く、最も負ける確率が高い戦い。
「……それでも。それでも俺が、俺たちが勝つ。絶対に……負けない」
瀬川はシャツの胸元を握りしめてテレビの画面を睨みつけた。
そこには──金の髪を靡かせる白綾后子の姿が映っている。
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