Chapter-04 女神は決して微笑まない
隣の芦毛は、ゲートが開くまでずっと僕を睨んでいた。ヒトで言う「ガン飛ばし」ということだと思う。僕はフジサワコネクトに何かした記憶がなかった(まず厩舎も離れているはず)しあまり興味がなかったので無視して前だけを見据えた。
あと数秒もすればゲートが開き、僕は真っ先に先頭へ躍り出て逃げ切る。それだけ。
それだけ……なのだが。
(僕、なんかしたっけ……)
気が散る。作戦だろうか。フジサワコネクトが僕をガン見しているのを見た他の馬も僕をじ~~っと見始めてしまった。これがもしかして「マークされる」ということだろうか。もし前が壁になったら窮屈だし思いっきり走れない。どうしよう──
「あか~~~~ん!! ロジェ!! 走ってやぁ~~~~!!」
(あっ。…………うわ──────っ!! ごめん后子!!)
四馬身半出遅れた。これはまずい。いや落ち着こう──后子は冷静そのものだし、特段手綱を強く握られることもない。他の馬がちらりと首を動かしてちょっと「大した事ねえな」という表情で僕を見る。加速してできる限り近づこうとすれば后子に軽く手綱を引かれた。今はまだ抑えろと指示されたので従う。出遅れたなら焦って前に行く必要はない。掛かってスタミナを浪費しては加速力が落ち、終盤で走れなくなる。
第一コーナーを超えて第二コーナーへ差し掛かる。そういえばフジサワコネクトがいなかった。いつもならこの辺の位置でレース展開をうかがっているはず。そう思って前を見ればフジサワコネクトが先頭を引っ張っている。──あの「追込の鉄骨娘」が逃げているのだ。皆がフジサワコネクトを追いかけている。
僕は后子の指示に従って大外へ退避する。馬郡が団子状態になっていて中を突っ切れないのだ──幸いスタミナは余裕だった。第二コーナーを超えて走る。大外で様子を伺いつつ僕は馬郡の隙を伺ったがまるでない。
このままじゃ最短距離で前に行けない。
そういえばフジサワコネクトはいつもどこから飛んできた?
思い出せ。勝機はまだある。
大外から一気に回って……追い込んできたはず。────まさか。
后子は美しい唇をすっと横へ引いた。たとえ大外回りだろうが極限まで無駄のないコーナーリングで第二コーナーを超え向こう正面の直線を突っ走る。だがまだ抑えたまま走る。
脚は温存しておく必要がある。一気にまくって走れるように。大逃げの終盤、さらに後続を突き放すあの加速を持続させ、さらに速く走るために!
馬郡から外れて外を走るが、この位置は確かに追い込み脚のフジサワコネクトからしてみれば全ての馬の位置を把握できる最上の位置。それがこの最後方──しんがりで馬郡からは外れたこの位置なのだ。
まだ、まだ我慢。
抑えたまま第三コーナーを通過し──ここから、行く。
ぐっと脚に力を籠める。心臓がドクン、と拍動する。僕は后子が手を動かすのとほぼ同時に一気に加速しカーブを一気にまくって上がる。
────前へ。前へ、前へ進め! 誰も追いつけないその先へ!
馬郡が視界で後方に去って行く。僕は一気に前へ躍り出た。二馬身程のリードを保ったまま走っているフジサワコネクトを追走し、第四コーナーへ差し掛かる。じわじわ前に詰めて先頭を狙う。
────行ける。
僕と后子の瞳が前だけを捉えた。──誰もいない。ここから先には誰も行かせない。
白綾后子という騎手に、敗北の泥は被せない!
僕は鞭が入った瞬間に溜めていた脚で一気に走る。最終局面、最後の直線。上り坂がある。
そして、ダービーは最も運のある馬が勝つ。だがそれがどうした。だからなんだ。僕は坂路コースで上がり最速を出した。勝機はいくらでも転がっている。
運だと? 笑わせやがって。
后子は「最も運の無い騎手」と呼ばれていた。僕は「運を掴み切れない馬」だと言われた。運で勝敗が決まるなら、そんなもん僕が覆してやる!
────逃げ切る。逃げ切ってやる! 誰も僕らの前は走らせない!
そう、思った。フジサワコネクトの後脚が地面を力強く踏む。爆発的な瞬発力をバネに銀の馬体が前へ躍り出る。
上がった左後脚から何か──銀色の固形物が飛んだ。僕が一瞬驚くのもつかの間、鞍上で后子は素早くそれを捉えている。手綱が突然思い切りぐっと後ろへ引かれた。
「────っっああ!!!!」
(!? 后子!?)
「……ックソ!! 視界が、無い、でもっ──今ならまだ前狙える!
────走ってロジェ!! 勝つのは私らや!!」
后子が僕に右鞭を入れた。合図に僕は再加速し前を走るフジサワコネクトに並んでつける。一瞬こちらを見たコネクトの鞍上がぎょっとした表情で僕らを見た。僕の首筋になにか、生温かい液体がかかった気がした。だがそんなことを気にしている場合ではない。
差せ。もっと早く足を回せ。后子に敗北なんて文字は似合わない。もっと速く、強く!
その決意が心拍数を上げる。僕はさらに足へ力を込めて芝を蹴り飛ばす。だが届かない。フジサワコネクトが僅かに前にいる。もう一歩、あと僅か。踏み込め、前へ行け! そう強く念じ必死で走る。
手前を変えて前へ。もう一度。右、左──だが、届かない。
もう一度。前へ、右と左を変える。だが前にいる。フジサワコネクトが絶対に前にいる。
『────鉄骨娘の根性と意地を見せるか!? 黒い紳士が優雅に勝利を収めるか!? いや……差し返せない!! ──さらに突き放すフジサワコネクト!!
フジサワコネクト!! 瀬川迅一、フジサワコネクト!! 瀬川迅一、フジサワコネクトォオオオオ!!!!
────三十四年ぶりの牝馬ダービー制覇ぁああ!!
フジサワコネクトだぁあああ!!!!』
銀色の馬体がゴール板を通過した。僕もほぼ同時に通過したが、確実に彼女には負けている。首か、半分か。それぐらいの差があって──その僅かな差が途方もない差に感じられた。僕は首を動かして后子の方を見る。
「白綾!! 白綾大丈夫か!? ごめん、俺のせいで──」
「やかましいわ。落鉄なんかどうやって予見せえっちゅうねん。……めっちゃ痛いけど。……もうなんか……半分視界ないもん。帰ろ、ロジェ」
そう言った后子の顔は、半分が血に塗れていた。
僕は后子の指示に従って小走りで他馬に合流する。
何が起きたのかわからないまま、僕らの日本ダービーは終わった。
分かっていたのは、ただ────
僕がフジサワコネクトに、敗北したことだけだった。
✤
国美さんに馬装を私は手渡し、競馬場の職員の案内に従って救護所へ向かう。怒りのオーラを轟々と燃やす渚ちゃんは静かに瀬川を睨んでいたが、国美さんが首根っこ掴んでロジェと一緒に連れて行ったので多分大丈夫やと思う。……思いたい。
問題はロジェの方だ。私が見る限り多分破片が馬体に刺さったとか、切り傷ができたとかいうのもないと思うが、私の視界は半分血に塗れて当てにならない。国美さんと渚ちゃんがついてるし、何か異常があればすぐにわかるやろけど心配やな、と思いながら、私は指示された通りストレッチャーに身を倒した。
「このまま搬送します。……うん、馬に乗っても大丈夫ですが、見る限り金属片が顔にかなり深く刺さっているので……もしかすると傷が残るかもしれません」
常駐している救急隊がそう言った。私は思考に靄がかかるほど疲労困憊だったので、適当でぼんやりした返事をしてそのまま瞼を閉じる。すぐに意識が真っ逆様に暗闇へ叩き落とされ────、
そこから先は全く何も覚えていない。目が覚めたらまず視界に飛び込んできたのは病院の天井だった。
私の顔にはガーゼと、額には包帯が巻き付けられている。どうやら額も盛大に切っていたらしい。
入院自体は必要ないものの、暫く処方された大きな絆創膏を顔に貼る必要があるらしかった。せっかくだからと全身くまなく検査されたが、特に他の異常は見られなかったらしい。
恐らく渚ちゃんが持ってきてくれたのだろう荷物を引っ張り出してジャージに着替え、ベッドサイドの小さなキャビネットに置かれていたスマホを確認した。
「うお……凄いメッセージ来てる」
私はとりあえず国美さんからのメッセージを確認する。そこには『瀬川騎手に罰金命令出た。着順変更は無し』とあった。
一着──フジサワコネクト。二着──ロジェールマーニュ。着差はクビ差。また三、四、五着もハナ差決着となった。全ての馬の意地がぶつかり合った超ハイレベルな日本ダービー。タイム差がほぼ無い決着で、タイムはレコードに迫る。
それでも負けは負けだ。私はロジェールマーニュという名馬の手綱を握りながら、負けた。
私の技量不足だ。勝てたレースだった。
たとえフジサワコネクトが落鉄しようが、勝てた可能性はごろごろ転がっていた。それなのに私は好位追走という戦法をとった。本来のロジェの良さを封印して、追い込ませて、結果的に掛かって逃げていたはずのフジサワコネクトに競り負けた。
私が負けを呼び込んだ。
自由に、無駄のないリズムで走って優雅に勝利を手中に収める馬を不自由にして。私がロジェの足を引っ張った。私がロジェのリズムを崩した。
馬が誇れる騎手になりたいと願いながら、私はロジェールマーニュという馬の誇りを地へ叩き落とした。
私がロジェを負かした。
フジサワコネクトの落鉄があったからやない。私が、ロジェから栄光を奪った。
私が、ロジェールマーニュを栄光から遠ざけた。
ダービーを勝つには守りに入っては駄目だった。好位追走なんかするもんやない。わかってたはずやのに。
ロジェは大駆け走法の馬。逃げて、駆けて、突き放して。
音よりも軽く、風よりも速く駆け抜ける漆黒の馬。それがロジェールマーニュという競走馬だった。
「──ッ……クソ!!」
ギリ、と奥歯が削れるような音がした。細身のズボンを握りしめ、太腿に指を立てる。力を込めすぎるせいで指先が白くなった。
もっと強くなりたい。もっと巧くなりたい。
そうして、そうやって、私は──必ず、馬が誇れる騎手になる。
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