第1話 青さに沈む町
合宿から帰ってきた日の夕方は、やけに静かだった。
三泊四日。
初めての合宿は、暑くて、慌ただしくて、音に満ちていた。
トランペットの音色を一日中追いかけていたせいで、耳の奥がまだじんじんする。
金属の息遣いと、リズムの波の中に、自分の呼吸を合わせる感覚。
それが、今ではまるで遠くの出来事みたいに、身体から抜け落ちていた。
駅からの道を、自転車を押して歩く。
頭の上では蝉が鳴いていて、地面の照り返しがじりじりと肌を刺す。
坂を下れば、そこはもう僕の町──音羽川町だった。
小さな川と、水を張ったままの田んぼが、夏の陽射しをきらきらと跳ね返している。
遠くに見える山は、深い緑に覆われていた。
雲一つない青空が、それを背景にぐんと奥行きを持たせている。
町の空気は、草いきれとアスファルトの熱で咽(む)せかえるほどだった。
それでも、どこか落ち着く。
自分の身体が、また元の場所に戻ってきたことを、空気が教えてくれていた。
家に着くと、玄関の前に母のサンダルがなかった。
ドアを開けると、冷えた空気と、少し湿った家の匂いが迎えてくれる。
台所のテーブルにはメモと、麦茶の入ったグラスが一つ。
* おかえり! 冷蔵庫に素麺あるよ *
一人で飲む麦茶は、甘くもなく、ただの水より少しだけ味がした。
冷蔵庫の音と風鈴の音が重なって、家の中が少しだけ生きている気がした。
ふらりと、玄関を出た。
自転車を押したまま、どこへ行くとも決めずに、坂をゆっくりと下っていく。
家の前の通りには、人の気配がなかった。
向かい側──斜め向かいの家は、陽翔(はると)の家だった。
あの家の玄関も、閉ざされたまま、何の気配もない。
見慣れた形の瓦屋根と、祖父母の育てる庭木が、変わらずそこにあった。
彼が引っ越してから、三年半。
あの家を見ても、もう胸のどこも動かないと思っていた。
でも、今こうして視線を向けると、胸の奥がほんの少しだけざわついた。
ただの偶然かもしれない。
合宿の疲れと、帰ってきたばかりの妙な空気がそうさせるだけかもしれない。
でも、なんとなく今日の町は──
いや、僕の知っている音羽川町は、
いつもより、ほんの少しだけ、青く沈んでいる気がした。
田んぼ道を抜けて、小川沿いの道に出た。
川の流れは静かで、岸辺の草が風に揺れていた。
夕方の光はまだ強く、地面の照り返しに足元がじんわりと熱い。
僕は何となく、小石を蹴るようにして歩いていた。
頭の中はからっぽで、合宿帰りのだるさと、家にいても落ち着かない感じだけが残っていた。
ふと、川の向こう側の草むらが揺れた。
そちらをなんとなく見る。誰かが立っていた。
背が高くて、がっしりした体格。Tシャツの肩が日焼けで色あせている。
部活帰りの誰かかと思った。でも、その輪郭が、どこか違う気がした。
ほんの一瞬、目が合った。
「……佐原くん?」
心臓が、びくんと跳ねた。
声と同時に、あの目が、あの顔が、僕の記憶の奥から一気に引き戻される。
でも、そんなはずない、と思った。何も考えていなかったから。
「……あ……うん」
言葉にならないまま、声だけが出た。
見違えるほど変わっていたのに、目だけは──陽翔だった。
「……高階くん、だよね?」
陽翔は、ちょっと照れたように笑った。
「うん。……ひさしぶり」
「ほんとに……」
僕たちは、三年半ぶりに再会した。
“ユウちゃん”も“ハルちゃん”も、どこにもいなかった。
ただ、名乗りもせずに目を合わせて、
名字に“くん”をつけた、遠い呼び方だけが空に残った。
小川のせせらぎが、足元を流れていった。
「……佐原くん、今もこの辺、住んでるんだ?」
「うん。……変わってない」
「そっか」
僕たちは、並んで歩き出した。
三年半という時間は、ふたりの足音を少しずつずらしていた。
昔は何も考えずに並んでいたのに。
今は、どのくらいの距離を保てばいいのか、どこを見ればいいのかさえわからない。
見慣れたはずの道が、妙によそよそしく感じた。
小川の水面に反射した光がちらちらと揺れて、風に揺れる草の葉が耳元をかすめていく。
そのとき、近くの木立から、アブラゼミの鳴き声が一斉に降ってきた。
鳴き始めの蝉独特の、湿り気を帯びた、濁った音のかたまり。
空気の層が、急に一段濃くなる。
僕たちの沈黙も、それに吸い込まれるようにして深まった。
「……久しぶりすぎて、どこから話せばいいか分かんないね」
陽翔が笑いながら言った。
笑った顔は、あの頃のままなのに、声は低くて落ち着いていて、どこか大人びていた。
「……うん。僕も」
そう返しながら、自分の声の小ささに気づく。
昔みたいに名前を呼べば、もっと近づけるのかもしれない。
でもそれは、どうしてもできなかった。
僕たちの歩幅は合っていなかった。
僕が、少しだけ速足になって合わせていた。
「部活、何やってるの?」
「吹奏楽部。……トランペット」
「おお、かっこいいな。似合うかも」
陽翔の言葉は、何気ない一言だったのだと思う。
けれどその「似合う」って言葉が、どこかくすぐったくて、
少しうれしくて、でもどう返せばいいのか分からなかった。
僕はただ、小さくうなずいた。
「高階くんは?」
「野球部。キャッチャーやってる」
「……やっぱり、って感じだね」
実際、見れば分かる。
肩幅が広くて、動きに無駄がない。声も、背中も、知らない誰かみたいだった。
「そっちはさ、部活、忙しい?」
「うん、まあ……練習は多いかな」
そのあとは、また少し黙った。
川の流れる音と、遠くで祭りの太鼓の音がかすかに重なった。
言葉が出てこないのは、話したいことがないからじゃない。
きっと、話すほどに「もう同じじゃない」ことがはっきりしていくのが、
少しだけ怖かったからだ。
僕は何度も、陽翔の横顔をちらりと見た。
でも、陽翔はまっすぐ前だけを見ていた。
その視線の先にあるものが何なのか、僕にはわからなかった。
「……帰ってきてたんだね」
「うん。いつもはさ、じいちゃんばあちゃんの方が夏休みに来てくれてたんだけど、毎回ってのも悪いなって話になってさ」
陽翔は、照れくさそうに後頭部をかいた。
「それに、部活ちょうどオフだったからさ。じゃあ今年は俺たちが行くかーって、家族で」
「……そうなんだ」
それなら、わざわざ近所にも大げさに言うようなことでもないし、
僕が気づかなかったのも、無理はなかったのかもしれない。
「佐原くんは? ……夏休み、ずっと部活?」
「うん。合宿があって、今日の昼過ぎに帰ってきたんだ」
「あー、じゃあすれ違ってたんだな。俺、三日前から帰ってたんだけど」
「……へえ」
ほんの少し、胸のあたりがちくりとした。
すぐそこにいたのに。
けれど、そんな偶然すら、たぶんこの町じゃよくあることだ。
「……いつまでいるの?」
陽翔の足が、一拍遅れて止まりそうになるのがわかった。
だけどすぐに、また何でもないふうに歩き出す。
「明日、戻るよ。もうすぐまた練習始まるし」
その言葉が、風の隙間からすっと胸に入り込んで、
奥の方に沈んでいくのがわかった。
「……そっか」
言わなければよかった。
聞いたところで、どうにもならないのに。
僕が答えるのとほとんど同時に、遠くからドン、ドンと太鼓の音が響いてきた。
腹に染み込むような低音。夕方の風の中に、少しずつ夏の夜が混じってくる。
「……ん? あれ、もしかして」
陽翔が耳をすますように顔を上げる。
「うん。たぶん今日、夏祭り……だったと思う」
「うわ、まじか。なんか……タイミングばっちりすぎるな」
「偶然、だね」
「……いや、運命かもよ?」
陽翔は冗談めかして笑って、僕は、笑うふりだけして下を向いた。
「……時間あるなら、行く?」
口に出してから、思ったより軽く響いたことに少し驚いた。
陽翔は一瞬、目を丸くした後、目尻をくしゃっとさせて頷いた。
「うん、行こう。せっかく帰ってきたしさ」
ほんの数歩だけ先を歩く陽翔の背中に、
僕の歩幅が、いつのまにか少しだけ追いついていた。
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