ひと夏の名前を呼んで
寛ぎ鯛
プロローグ
夏は、いつもと変わらない顔をしてやってきた。
空の色も、山の輪郭も、風にまじる匂いも、去年と同じはずだった。
けれど、それなのに、何かが少しだけ違って見えるような気がした。
それは僕の背が少しだけ伸びたからかもしれないし、
寝巻でいつも着ているTシャツが前より少しきつくなったせいかもしれない。
あるいは、気づかないうちに、僕のなかの何かが変わってしまっただけなのかもしれない。
音羽川町は、山のふもとにある。
水田と民家が混じり合って、風が吹くたび草の匂いが一斉に押し寄せる。
夏になると、その匂いに照り返しの熱がまざって、息を吸うたび胸がむせそうになる。
昼間はセミの声が頭上から降ってきて、夜になると代わりにカエルが鳴く。
夕方になると、誰もいない川沿いの道にヒグラシが鳴き始める。
それは毎年、変わらないはずの風景だった。
今も昔も、この町を出たいと思ったことはない。
退屈だとか、何もないとか、そういう言葉で言い切るには、
僕にとってこの町は、あまりにも当たり前で、あまりにも身に染みついていた。
夏になると毎年、神社で小さな祭りが開かれる。
境内に屋台が並んで、参道には提灯が吊るされる。
そんな風景も、僕には「今年も来たな」と思うだけのものだった。
だけど今年は、少し違った。
僕のなかで、なにかがざわついていた。
それが、何に対してのものだったのか、当時の僕にはまだわかっていなかった。
けれど今になって思えば、
それは「何かが起こるかもしれない」という、根拠のない予感だったんだと思う。
だって、そんなふうに思った夏に限って、なにかが起こる。
もう二度と戻ってこないような、
けれど、ずっと忘れられないような、そういう夏が。
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